短資会社
短資会社(たんしがいしゃ)とはコール市場を始めとする短期金融市場で、資金の出し手と取り手の間に介在して、資金取引の仲介を行う金融業者。短資業者。
なお、コール市場とは、預金を受け入れる金融機関が、支払準備の過不足を調整し、融通し合うインターバンク市場(銀行間市場)のこと。
概説
[編集]短期金融市場では、銀行などが資金の出し手または取り手となって、取引所によらず、相対で取引している。
短資業者の仲介の仕法は、
の二つがある。
「短期金融市場の機能の円滑化と資金効率を高める」ため、「短期金融市場取引の主要な仲介者」[3]として、日銀当座預金(日本銀行が提供する決済手段)の利用が許されており、また、日本銀行から貸出を受けることもできる。
短資業者は、適用される業法を持たないが、「主としてコール資金の貸付けまたはその貸借の媒介を業として行う者」[4]として、金融庁長官の指定を受けて貸金業法の適用を除外され、また、「金融商品取引法上の金融機関」として、登録を受けて、有価証券関連業のうち登録金融機関業務(限定された証券業務)を行うことができる。
歴史
[編集]ビルブローカー業者の登場
[編集]日清戦争後に商工業が発達し、手形取引の範囲が拡大して、その鑑別の機会が増える一方、預金残高の積み上がった民間銀行がコール市場を必要とするようになった[5]。そこで、銀行からコール資金を取り入れこれを元手に手形割引を行い、または銀行間の手形の売買やコール資金の取引を仲介するビルブローカー(手形仲買人)が現れ、今日の短資会社の原型となる。
ビルブローカー業者は、1899年9月に諸井時三郎率いる東京綿糸の社内に設置された諸井手形部と、1902年5月に藤本清兵衛が設立した藤本ビルブローカーが先駆となった。その後輸出産業の花形だった紡績会社の多い大阪に、大小さまざまのビルブローカーが続々と現れた[6]。
ビルブローカーのビジネスモデルは、
- 自己資本と銀行から取り入れたコール資金を元手に自己の計算で手形を売買する手取ブローカー(=手形を裏書する)
- 単なる仲介、つまり他人の計算で手形を売買する仲介ブローカー(=手形を裏書しない。手軽に走り回るという意味[7]で「ランニング・ビルブローカー」[8]とも呼ばれた)
の2つ[9]。
1907年に日露戦争後の恐慌が始まると綿糸・銅・砂糖商の破綻が続き、手形割引リスクが増大する一方でコール市場の拡大にブレーキがかかってビルブローカー業界は沈滞した[10][11]。その後、第一次世界大戦が始まると、戦時景気による金融緩慢と不況下で貸出しの固定化した台湾銀行の大口取引(コール泳ぎ、コール漁り)が原動力となって、コール市場の規模が飛躍的に拡大した[12]。さらに、コール市場と手形割引市場の間の金利差が拡大してビルブローカー各社の採算が著しく改善するなどしたため、1914年[13]以降はビルブローカー業界は未曽有の繁栄を享受し、手取ブローカー(藤本、増田、奥山など)が手形貸付や公社債売買の規模まで拡大する一方、コール市場専業の仲介ブローカー(司城商店、上田商店など[14])が翌日物取引での手数料競争にも克って躍進した[15]。
その台湾銀行が発端となった1927年4月の第2次昭和金融恐慌(1930~31年の昭和恐慌とは別もの)で金融不安が深まると銀行が一斉にコール資金を市場から回収し、東京銀行集会所組合銀行のコールローン残高が同月末に一旦ゼロとなる程だった。その後も、大口の取り手だった台湾銀行がコール資金の取引から撤退する一方、取引ルールが厳格化[16]されるなどしてコール市場の規模が大きく縮小し、その煽りでビルブローカー(特に仲介ブローカー)の経営は大打撃を受け多くが休廃業することとなった[17]。
1931年12月の金輸出再禁止の後に積極財政が取られ、翌1932年に金融緩慢となってコール市場の残高が再拡大に転じるとようやくビルブローカー業界の業績が回復[18]。しかし1937年7月に日中戦争が始まって戦時経済に移行し、インフレ抑制策として金融統制・資金統制が行われるようになると短期金融市場は次第に縮小した。ビルブローカーの多くが戦時中に再び休廃業に追い込まれた。
1942年金融統制団体令により、ビルブローカー14社と証券会社4社は、「短資業統制組合」の設立を命じられ、申合団体「ビルブローカー協会」は発展的に解消した。この統制組合の定款において、「洋式呼称を忌避した戦時的な措置」(※いわゆる敵性語という扱い)として、「短資業」という字句が初めて用いられた[19]。これは当時の銀行局長(戦後、大蔵次官や日銀総裁を歴任した山際正道)の裁定による[20]。組合員となったビルブローカーは、いずれも商号を「短資会社」に改めた。それまで「短資」という字句が使われていなかったのは、昭和金融恐慌まで、取引期間の長いコール取引があったためである[21]。
第二次世界大戦後の短期金融市場にあって、ビルブローカー改め短資業者は、日本銀行が金融調節のために行うオペレーション(公開市場操作)の窓口と位置づけられた。短資業者の業容は、短期金融市場の質的・量的な発展を背景として、特に1980年代以降、拡大した。コール市場の残高(短資業者の仲介分、月末・出し手ベース)は、1985年11月末の4兆8171円を最後に5兆円台に乗せた後は、拡大ペースをさらに速めて、1992年秋から1994年夏まで、40兆円を超える水準を維持した。
しかし、日本銀行の金融調節における短資業者の独占的な地位は、1997年6月に「中央銀行の独立性」と「政策決定の透明性」を柱とする改正日本銀行法が成立したのを機に見直され、専ら短資会社を窓口とする金融調節は、2000年7月までに全廃された。コール市場の残高も、1999年2月からのゼロ金利政策、2001年3月からの量的緩和政策の開始に前後して、銀行間の直接取引(ダイレクト・ディーリング。短資業者が介在しない)や銀行間預金などの増加によって再び縮小し、2002年10月末には14兆1283億円(ピークの1995年4月末の3割を切る水準)となった。
短資会社としての地位確立
[編集]1907年以降、大蔵省が「コールマネーは預金、手形割引は貸出に等しい」という法令解釈を行ったため、当時のビルブローカーは銀行業のライセンス(認可)を受けることが許された。業界首位の藤本ビルブローカーに対しては、「社名に銀行を冠した上で認可申請せよ」との内達が下された[22]。しかし、銀行経営の健全化を目的とする1927年銀行法(翌1928年1月施行)[23]により、銀行の兼業とその役員の兼職が制限されると、既に公社債売買業務に注力していたビルブローカーは、これを止められず、5年間の猶予期間の終了とともに銀行であることができなくなった。そうして「ビルブローカー銀行」(藤本、早川、柳田など[24])はいずれも消失した。
なお、戦後の1980年9月、通達「金融機関相互間の預金取引の媒介について」(1980年蔵銀2292号)により、銀行間市場での預金取引の媒介が解禁されたが、「預金取引の媒介は、その取扱方法次第では預金取引の代理行為ともなり、銀行法に抵触する惧れがある」とされ、「金融機関相互間の出会をつけること等に限る」という条件が付された。
1948年証券取引法[25]は、証券会社の兼業を禁止したため、短資業務から公社債売買業務への軸足を移していた藤本ビルブローカーが改名した大和證券[26]は、証券会社化して短資業界から退場した[27]。同社の短資業務は、柳田ビルブローカー改め柳田短資が継承し、柳田短資は東京短資と改名した。
日本銀行は1956年、一括して引き受ける政府短期証券(FB)の時限的な市中売却を行ったが、短資業者がその相手方となるなら、「証券会社でない者」が証券業務を行うことになる。そこで短資業者の証券会社化が検討された[28]が、①短資業者と証券業者との業務分野を画然とすべきである、②短資業者が有価証券全部の売買をすることを合法化する要がない、という理由で見送られた[29]。短資業者は「証券取引法上の金融機関」に指定[30]されて、限定的に、証券業務を行うこととなった。
その後、1981年に再び政府短期証券(FB)の市中売却が行われた。転売が許されるなど、近い将来の市場創設とそこでのオペレーション(公開市場操作)が予定されたため、1982年4月に「短資業者の証券業務に関する省令」[31]が施行された。短資業者6社が「証券取引法上の金融機関」に指定され、認可を受けて「公共債に関する証券業務」を行うこととなった[32]。このとき短資業者に解禁された証券業務は、政府短期証券(FB)の売買業務であり、後に、割引短期国庫債券(TB)の売買業務が追加された。
同時期、銀行法が改正され、銀行にも「公共債に関する証券業務」が解禁されたが、銀行には、窓口販売業務、ディーリング業務、先物取次業務などが順次、解禁された。同じ「証券取引法上の金融機関」でありながら、解禁される証券業務に差異がある状態は、1998年金融システム改革法により、証券会社が免許制から登録制に、証券業務を行う金融機関が認可制から登録制にそれぞれ改められるまで続いた。上記の短資省令はここで廃止され、銀行省令[33]と一本化された。
上記のほか、1992年金融制度改革法(翌1993年4月施行)により、「新有価証券に係る証券業務」として、短期有価証券(国内CP・海外CP・海外CD)の売買業務も解禁された。
短資業者は手形割引を行うため、1939年金融業取締規則以降、貸金業者として業法の適用を受けた。1954年出資法とこれに基づく委任政令[34]により、一般貸金業者と同じく、都道府県知事の監督を受けていたが、同年7月の事務連絡[35]により大蔵省財務局の指導下にも置かれた。さらに、昭和20年代前半から、いわゆる「金融正常化」が進んでコール市場の規模が拡大し始めると、1956年4月に委任政令が改正されて、大蔵大臣の直轄する貸金業者となった。1983年貸金業規制法により、「市場と取引の相手方がコール市場及び金融機関に特定されており、一般私人に対して貸付けを行わない」という理由[36]で、貸金業法の適用を受けないこととなった。
四社寡占から六社→七社体制へ
[編集]第二次世界大戦後の1946年金融緊急措置令に基づく告示では、12社(証券会社を含まず)がビルブローカーとして指定されたが、戦中戦後にかけてコール市場の規模が縮小していたため、既に多くが休廃業しており、1949年頃にはわずかに4社(上田、山根、東京、八木)が営業するのみとなっていた[37]。うち八木短資は、コール資金の取扱高が増える1962年11月まで、日銀当預取引を行うことが許されなかった。1956年6月に日本割引短資(1988年6月、日本短資に社名変更)、1962年12月に名古屋短資(日本割引短資の名古屋支店の営業を承継)がそれぞれ設立され、その後長く続く「6社体制」が完成した。
1988年11月に日本銀行が新金融調節方式[38]を導入すると、市場改革の機運が盛り上がり、短期金融市場研究会(1989年6月設置、座長:堀内昭義東大教授、事務局:大蔵省銀行局、日銀企画局)が1990年6月に公表した報告書「わが国短期金融市場の現状と課題」では、「資金仲介業務への新規参入に対する適切な対応が図られることが望ましい」とされ、日本銀行が同年12月に発表した「金融調節手段の整備等について」では、「かねてフリー・エントリーの原則が確立している」として、新規参入の余地があることが明記された。
そうした経緯もあって、1993年8月、外為ブローカーのハトリ・マーシャル(羽鳥商会と英MWマーシャル社の合弁会社。東京銀行が大株主)が、「7社目の短資会社」として、無担保コール(先日付取引)の仲介業務に参入し、短資協会にも準会員として加入した。約30年ぶりの新規参入だったが、同社は1999年3月、日短エクスコ(現在の日短キャピタルグループ)に買収された。
現存の短資会社
[編集]- 2001年7月に2社(上田短資、八木短資)が合併して発足。うち上田短資の前身は上田商店。1918年にコール市場専業の仲介ブローカーとして大阪で開業。後発ながら1936年までにコール資金の取扱高で先行各社を追い越した[39][40]。
- 2001年4月に3社(日本短資、山根短資、名古屋短資)が合併して発足。うち山根短資の前身は山根ビルブローカー。1909年に藤本ビルブローカーの出身者が仲介ブローカーとして東京で独立、開業。
- 前身は柳田ビルブローカー。1909年に藤本ビルブローカーの出身者[41]が仲介、後に手取ブローカーとして東京で独立、開業。1949年1月、早川短資を吸収合併するとともに、元藤本ビルブローカーである大和証券の資金部の短資業務を承継して現在の社名に改めた。
関連項目
[編集]- 外為ブローカー - 東京外国為替市場で直物取引を扱う。同じ銀行間市場で仲介業務を行う短資業者が、当初は本体で、その後は子会社を通じて手掛けた。
- 銀行の証券子会社 - 短資業者の証券子会社を含めた説明。
- 私設取引システム運営業務 - 「金融商品取引法上の金融機関」である短資業者には解禁されていないため、いずれも証券子会社にて手掛けている。
- レポ取引 (国内短期金融市場) - 証券会社や短資業者が仲介する金融取引。現先取引と現金担保つき債券貸借取引の2つがある。
- 大和証券 かつての藤本ビルブローカー。1902年に開業した後、日露戦争後の不況下での大日本製糖の破たん、昭和金融恐慌による十五銀行[42]と川崎造船所の破たんなどに深く関与し、その経営が停滞することもあったが、パイオニアとして戦前のビルブローカー業界を牽引し続けた。もともと創業者が当時の短期金融市場が未発達であることを認識していた[43][44]ためか、昭和金融恐慌の前後から証券業務に積極的に取り組んでいたところ、1948年証券取引法の施行を機に証券会社化して短資業界から退場した。
外部リンク
[編集]- 短資協会。1962年11月に設立された業界団体。任意団体であって、業法に基づく認可法人ではない。戦前のビルブローカーは、東京と大阪にそれぞれ、ビルブローカー組合を設立していたが、昭和金融恐慌後は「過当競争を防ぐ」という意義が失われて無実化していた。1937年12月に、東京または大阪で営業し、日銀当預取引を行うことが許されていた6社が、申合団体「ビルブローカー協会」を設立した。1937年臨時資金調整法による設備資金の統制に続き、1940年銀行等資金運用令による運転資金の統制が始まると、主要なビルブローカー(東京7社、大阪2社。証券会社だった藤本ビルブローカーを含まず)が告示により適用対象として指定された。その際、協会未加入のまま指定された4社が準会員として協会に加入した。
- ジェイ・ボンド東短証券。東京短資が2007年10月に買収して子会社とした証券会社。私設取引システム(PTS)運営業務の認可を受けて、日本国債の現先取引(※短期資金取引の1つ。予め反対売買することを約して日本国債の売買を行う)のシステム仲介を行っている。「約定後に親会社に仕切売買させる」ことにより、オーダードリブン型の取引システムでありながら「資金取引における短資業者の介在」を再現しているのが特徴。
- 日本銀行(※短期金融市場のページ)日本銀行は2008年以降、毎年8月末に、短期金融市場に関する包括的な調査「東京短期金融市場サーベイ」を実施し、その結果を10月に公表している。
- 「第一次大戦期短期金融市場の発展とビルブロ-カ-の経営軌道」(1982)靏見誠良(法政大学経済学部)は他に、「成立期の日本信用機構の論理と構造」(上)(中)(下1}(下2)(完)(1977~79)という論文も発表していて、当時の手形割引市場の状況はそちらに詳しい。
脚注
[編集]- ^ 「短資会社は日本銀行取引を有し、取扱うコール資金は全て自己勘定を以て処理するが、この資金をコール貸付以外の自己保有財産に運用することは全くない。これはわが国短資業の他に類例を見ぬ特色であり、仲介方式と同等の安全性を確保しながら、仲介方式の制約を脱した幅広い弾力的な市場の成立を可能ならしめているのである。」相互銀行1969年1月号「金融関連機関めぐり1短資会社」
- ^ 日銀金融市場局(金融市場レポート)『量的緩和政策解除後の短期金融市場の課題』2006年。
- ^ 「日本銀行の当座預金取引または貸出取引の相手方に関する選定基準」2.1.ハ.
- ^ 貸金業施行令1条の2、金融商品取引法施行令1条の9
- ^ 「尤も其れよりずっと以前東京にては明治二十六年の頃、東京手形売買所と称する支店銀行十四行の会合が出来、毎日一定の場所に集って、極短期の資金の遣り取りを為して相互の金融の便宜を計った。又大阪にても交換所(手形交換所に非ず)と称して重なる銀行が毎日午前中集合して手形交換尻の決済の為めの翌日払の資金、又は短期日の資金の遣り取りを為し、其需給関係で定った日歩が交換日歩と称えられて標準日歩となって居たが、此等の取引は実質的にはコール同様の作用を為して居たようである。そして其起源は明かでないが、明治二十七八年頃には既に余程盛んであって、日々の出来高は百万円乃至百五十万円に上ったそうである。然し明治三十四年の大恐慌の際大阪の逸見銀行などの破綻したのは、余りに此資金を濫用して居た為めであって、其後は此取引は担保付が主となったが、而も何時の頃よりか此会合は唯懇親的なものと変化した。又東京の方も明治三十七年八十九銀行の破綻の為め、此種の資金の貸借は廃止されたのである。」(明石照男「コール市場に就て」山崎教授還暦祝賀記念経済学研究、東京帝国大学経済学部、1929年)
- ^ 谷村市太郎(藤本ビルブローカー)『本邦ビルブローカー変遷史』1929年。「爾来、大規模のビルブローカーとしては藤本が唯一つ存在していたのであるが、いわゆるランニング・ブローカーは東京、大阪に随時発生した」
- ^ 山根雅男『コール取引論』斯文書院、1932年。
- ^ 「現在、東京には、チャンとした看板をかけ、しっかりした資本の基礎の上に立ってやっているビルブローカーは、十数軒ある。しかし自分の計算で手形等を買い、時期を待ってこれを売って儲けるというやり方では、多額の資本も必要だが、毎日、銀行へ出かけて行って、その日の資金の模様を探り金利の相場をきき歩き、商店や商事会社、事業会社等を回って手形の有無をきき、適当なる売手と買手を見つけてその場で両者の中へ入って取引させるというようなやり方、こういうのをランニング・ブローカーというが、こんな方法ならば、極端にいえば、一文も持たなくても商売はできる。だから、店もなく、社員も使わず、一人で歩き回って商売をしているブローカーは相当な数に上っている…」(雑誌「実業の日本」1936年10月号)
- ^ 「コールブローカーには、単にこの取りたいと言ふ者と、出したいと言ふものとを結びつけるだけで、自分の手許では少しのコールをも手持ちにせぬ所の、ランニングブローカーと、出したいと言ふものから取ってやって、取り度いと言ふものに出してやる所の手取りブローカーとがある。ランニングブローカーは単に出し手と取り手を結びつけるだけだから、其のやり取りは結びつけて貰った同士がやる、併し利息だけはブローカーの手を通してやる。ブローカーは取り手から受取った利息の中から幾何かの利ざやを差引いて其の残りを自分の小切手で出し手の方へ渡してやる、そこでランニングブローカーの手数料は、出し手にも取り手にもわからぬ訳である。又、手取りブローカーとなると、出したがって居る所から取ってやるのだから、取りたがって居る所へ出す場合は、自分の金として出すのである、利息の受け渡しも皆、自分が当事者で、ランニングブローカーの如く結びつけた双方勝手で受渡しさせるのとは異なって居る。だから手取りブローカーは資力があり信用がある者でなければ出来ぬ商売である、今、東京で手取りブローカーを営んで居るものは、藤本、早川、柳田の三ビルブローカー銀行があるばかりで、他はランニングブローカーである。ランニングブローカーの数はザット十二、三軒あって、山根、竹村、多福、東、第一、上田等が比較的手広く仕事をして居ると言ってよい。何と言ってもランニングブローカーはコール受渡しの橋渡しをするのみだから、仕事は簡単で、従ってニ、三、銀行の後援があれば出来るわけで、ブローカーの内にはピンからキリ迄あると言へよう。一番簡単にやるには人力車一とうと顔さへあれば出来る商売である。かう言うと如何にも単純な仕事の様だか、仕事そのものはなかなかさうおやすくはまいらぬ。先づコールブローカーをやる程の人は、其の銀行のコール取扱当務者を知らねばならぬ。其の知り方も顔や名前を知る位では到底駄目、当務者については平素からよく調べて置いて、其の人の性格から尻の穴迄、知り抜いて置く必要があると云ふもの。大抵の銀行では、コール当務者は支配人か課長であり、小さい銀行では頭取さま御自身でやって居る所もある、これ等の人の全部を知り抜くと云うことは、可成り骨の折れる仕事である。然しこれにはまた自らこつのあるものらしい。」(国民新聞経済部「街頭経済」民友社、1928年)
- ^ 「其の事業は全く失敗史に依って覆われたるの観あり。今熟々其の失敗の原因を按ずるに、(一)銀行の取引先を攪乱すること其の一なり。…(二)資力薄弱にして信用を博するに至らざること其の二なり。…(三)第二流以下の手形を提供すること其の三なり。…要之するに、手形仲買業は金融上極めて必要なる機関には相違なしと雖も、業務未だ幼稚にして、信用を得るに至らざるなり。」(「明治金融史」東洋経済新報1909年4月3日号)
- ^ 「日露戦争後の恐慌に際しては斯業の頓挫期に会せり。蓋し(先ず)ビルブローカーは銀行と商人との間に介在して手形の割引、再割引に従事するが故に、銀行業務の範囲を侵す憂い大なりし事。(次に)得意先の内情に通じその信用状態を暴露するの危険あるを以て悪感情を招き、コールの運用に支障を来すこと少なからざりし事。(又)ビルブローカーの信用は未だ薄弱なるを免れず、手形に裏書するも銀行は寧ろ手形そのものを重視し、其の保証は重きをなさざりし事。(尚)取扱いし手形は二流以下のもの多く、その信用を薄からしむると共に、危険を負いたる事。(其他)営業余りに多岐に亘りブローカーと市中銀行、及び中央銀行の連絡の不円滑等の事実存したればなり。平時に於いてはかくても支障なかるべしと雖も一旦金融逼迫するに至れば運用資金たるコールの切換又は繋ぎは不能となり、割引市場亦警戒厳重となりブローカーは窮状に陥るなり。」(横浜正金銀行「コール取引の研究」1922年)
- ^ 「殊に世界大戦争以後、我国の輸出超過に応ずる資金を調達する必要上、為替銀行が巨額のコールを吸収した為め、コールの取引が頻繁となり、又東京に柳田、山根、早川、多福など、大阪に増田、奥山、司城などのビル・ブローカーも起り、此処にコール市場の出現を促進した。」(明石照男「コール市場に就て」山崎教授還暦祝賀記念経済学研究、東京帝国大学経済学部、1929年)
- ^ 村田栄次郎『回顧十年』1927年。「大正3年はビルブローカーの当り年だったと財界では称されている」
- ^ 靏見誠良(法政大学経済学部)『第一次大戦期短期金融市場の発展とビルブローカーの経営軌道』1982年。「新規参入の仲介ブローカーのなかでは司条と上田が広く得意先を開拓し他を圧している」
- ^ 「無条件で、コール取入れを是認さるべきものは、ビルブローカーであるが、今日のビルブローカーの如きを指称するのではない。ここに無条件とは、其の使途の如何に拘らず、相当の担保さへ提供すればとの意である。而して其の担保は、一朝総回収を受けたる際、日銀に走りて借入なして返済し得べき品物でなければならぬ。担保を保有する銀行が、慮分して換価性ありと認むる様な品物である事も、一の要件ではあるが、此の様の際に、果してうまく処分が出来得るや否やが問題であり、其の銀行の体面にもかかわる事がある故、最も安全なのは日銀借入適当品である事である。そして日銀への借入者がビルブローカーとすればよいのである。此の点から云えば、ビルブローカーから手形を買ふよりも、寧ろコールの担保の形式にした方が優るのであって、自己の所有とすれば、一朝大なる金づまりとなれば、自ら日銀げ再割を余儀なくされて、体面問題ともなるのであるが、担保ならば、ビルブローカーに再割を行はしめて、自分は之を回収すればよい訳である。」(山根雅男「コール取引論」斯文書院、1932年)
- ^ 東京・大阪の銀行がそれぞれ「コール協定」を締結。
- ^ 岩崎博(藤本ビルブローカー)『コール市場の理論と実際』文雅堂、1928年。「東京における多福、戸田、東、上田等のビルブローカーは為替業務に専心することとなり…」
- ^ 「昭和年間ビル・ブローカーのコール市場に於ける地位は如何と見るに、銀行間のコールの取引は必ずしもビル・ブローカーの仲介によらず、従ってブローカーが其の営業の必要上自己の計算に於てコールを取入れることの多くなったことを認められるので、此点は嘗て詳しく論じた点である。此間に於て在来のビルブローカーの外、大阪の上田ブローカーの台頭が著しく注目に値する。上田ブローカーは大正年間の央開業したものであるが、昭和年間に入りては同地に於ては勿論、東京に於ても其の活動は目醒しく、而も其の遣口が健全であるから、出手取手双方の信用を博し、漸次自己計算に於てもコールを取入れるようになり、或は日本銀行に勘定を持ち、或は或種の銀行を利用して特殊の金融の流通を計るなど、従来のビル・ブローカー以上の活動を続け、或場合にはコール市場を独占して之を引きずり行くと評せられる場合さえあった。されば協定外のコール資金の利率の如き、東京では上田を始め藤本、柳田其他のブローカーが手形交換後集まって定めるなどと云われた時期さえあった。唯斯くの如きブローカーが今少し数多くなるとコール市場の発達に資するであろうが、明治から大正にかけて起り来ったブローカーすら餘り大きくならない者もあるし、中には廃業した者もあって、健全に発展する者の案外少ないのは遺憾である。」(明石照男「最近のコール市場」経済学論集、1933年10月、東京帝国大学経済学部)
- ^ 「第1条…地区内に於ける短資業(コール資金の貸借及其の媒介並に手形の売買及其の媒介の事業を謂う。以下同じ)の機能の一体的発揮を図る…」
- ^ 『八木短資五十年史』1985年。
- ^ 「短資、短期資金なる用語は不適当なるものと信ず。用語の習慣上より見るも決して一般的に使用せられおるものとは信ぜられる。かかる用語を往々にして散見する場合は新聞雑誌記事中に多く、しかもその使用者の識見より考ふればコールマネーが普通、短期なる貸金と時間的に見て同様なる性質を有する場合に使用せられおること多し。なお銀行営業上の整理としては従来よりかかる名称の下に整理せられあることを聞かず。」(川住義雄(早川ビルブローカー)、1922年横浜正金銀行レポートに寄せた読後所感)
- ^ 『藤本ビルブローカー証券株式会社三十年史』1936年。「然るに時偶々当社コール・マネー残高一千万円を超過したが、これは主として銀行預金より転化したものなる為、大蔵省はこれを預金と見做し且つ手形の買入は貸出を行うものと解釈し、旧銀行条例第一条に規定する営業を為すものとし、当社を銀行とし大蔵省の監督の下に置く可き旨の内達があった。茲に於て当社は銀行条例の下に銀行として経営することとなったが、当時大蔵省は所在都市人口と比較して銀行の資本金額を決定する方針であった為、当社も資本金を一百万円とすることに決した。……尚当時銀行条例に依れば、必らずしも銀行なる名称を冠する必要なき故、藤本ビルブローカーの名称を以て営業せんと思惟したが、特に「銀行」を冠せよとの内達があった為、銀行なる名称を附した次第であった。」
- ^ 1927年銀行法は、銀行業に資本要件を課したため、多数の中小銀行が「無資格銀行」となり、廃業または合同を余儀なくされた。1927年からの5年間に、銀行の数は6割減少した。
- ^ 増田ビルブローカー銀行は、経営者の投機がたたって(平井瑗吉「京都金融小史」1938年)、1920年3月の株価暴落の翌4月に破たん、整理されていた。
- ^ 1947年証券取引法を一部施行したところで全面改正したもの。
- ^ 銀行法により藤本ビルブローカー銀行から藤本ビルブローカー証券、短資業統制組合設立時に藤本証券、日本信託銀行合併により大和證券と改名を経ている
- ^ 『大和証券60年史』1963年。
- ^ 証券会社は、1947年証券取引法以降、3・9月の年2回決算が義務づけられていたが、1950年改正法により年1回の9月決算に改められた。東京短資と旧・山根短資の2社は、1964年3月期まで、3・9月の年2回決算を続け、その後、3月決算会社となった。なお、証券会社が3月決算会社とされたのは1988年改正法による。
- ^ 『銀行局金融年報1957年版』大蔵省。
- ^ 「証券業者の登録、資本の額、純財産額及び営業用純資本額等に関する政令」(1953年政令345号)1条に基づき、まず3社(上田、東京、山根)から、「なお、指定された3社は取扱資金量が大きく、金融市場に占める地位が高く、さきに「貸金業の届出及び貸金業の実態調査に関する権限の委任に関する政令の一部を改正する政令」(…)に基づく、大蔵大臣の指定をうけている(…)短資業者と同一である」(銀行局金融年報1957年版)として。
- ^ (1982年大蔵省令24号)1条「この省令は、短資業者が、証券業務の認可を受けようとする場合における認可申請の手続を定めるほか、当該証券業務に関する届出、報告等につき必要な事項を定めるものとする。」
- ^ 「業務の範囲については、日本銀行ならびにコール・手形市場に参加する金融機関および証券会社との政府短期証券の売買に限定する」との条件が付されたため、「足かせをはめられた」というのが短資業者側の反応(「オープン市場への進出強める短資会社」金融ジャーナル1982年6月号)
- ^ 「銀行等の証券業務に関する省令」(1982年大蔵省令62号)第1条「この省令は、銀行等が、証券業務の認可を受けようとする場合における認可申請の手続及び当該証券業務に関する禁止事項について定めるほか、当該証券業務に関する届出、報告等につき必要な事項を定めるものとする。」
- ^ 「貸金業の届出及び貸金業の実態調査に関する権限の委任に関する政令」(昭和29年政令160号)
- ^ 1954年7月事務連絡「出資の受入、預り金及び金利等の取締等に関する法律」について
- ^ 大森泰人『Q&A新貸金業法の解説』金融財政事情研究会、2007年。
- ^ 『短資市場七十年史』実業之日本社、1966年。
- ^ 金融調節力を強化するため、短期の手形オペ導入、無担保コール取引の長期化などにより、手形市場とコール市場の間の裁定取引を促した。
- ^ 日銀調査局『ビルブローカーの金融的地位に就きて』1937年。「しかして、そのうちいわゆる手取ブローカーとして金融的に相当有力と認めらるるは、上田、早川、柳田、藤本の4店なり」
- ^ もっとも、取引期間の長短があるため、取扱高の単純な比較はできない。「…翌日払の比重を勘案するならば、第一表に掲げた東京の藤本、大阪の司城・上田の年間取扱高は、実勢力よりは過大にあらわれる。」(靏見誠良「第一次大戦期短期金融市場の発展とビルブローカーの経営軌道」1982年)
- ^ 「柳田の主人公は元藤本に勤めた人であるが、独立して仲介を業とし、比較的公正なるレートの持ち主であった。藤本は古くからあるけれど、どうも自分勝手で困る。それは手取ブローカーの陥り易い欠点ではあるが、とにかく、信頼出来難い」(山根雅男「コール取引論」1932年)
- ^ 武田葛城(武田ビルブローカー改め武田割引銀行の創業者)『七顛八倒記』1943年。「しかし十五銀行は6大銀行の1つとして全国に数十ヵ所の支店を有し、預金額は3億円を超え、宮内省は自ら多数の株式を持ってその本金庫とし、株主の多くは華族にして、その株式は華族世襲財産の1つに数えられているのである。世人はほとんど特殊銀行同様の厚い信用を置いており、財界一方の重鎮としてその権威を保維していたのであった」
- ^ 「コールマネーは最も発達致し是以上は自然の発達に待つ外なし蓋し昨今両年の如き金融界緩慢の時に在りては銀行は常に資金を持余す故にコールマネーとして有利に運転するは最も便益を感ずるを以て此の如く歓迎を受けしなるべし然れどもコールマネーは増減最も急劇にして残高絶えず変動し殊に繁忙の時は直ちに引揚げらるるを以て営業上之にのみ重きを置くを得ず次に担保付借入金は其性質上余り歓待すべきにあらざるも銀行はビルブローカーを相手とする方担保の選択自由なると回収に便なるの利益あるを以て常に多くの取引あり而して商業手形の買入に至ては近来第一流の手形に全力を注ぐの方針を採りつつあるを以て出来高比較的少しと雖も将来頗る発達の余地を存し又此方面に力を用ひんことを期す」(藤本清兵衛「ビルブローカーの地位」大阪銀行通信録、1903年11月号)
- ^ 「金融界今日の緩慢は永久持続すべきにあらず必ず一陽来復金融界活動の時期あるを予期せざるべからず然れどもビルブローカーは今日迄金融緩慢の恩沢を被むれること多し何となれば多数銀行はコールマネーを準備金として待遇せずして遊金の置場と見做すを以て資金の入用を生ずれば直に之を引揚ぐ故に其期日の如きも多く二週間を超えずコールマネーの最も増加するは納税時期に銀行税金を中央金庫に納むるまでの間に在り又大阪の本店銀行が月末に各地支店へ送付したる資金が翌月初に返り来る時に於て亦然りとす之に反し毎月々末殊に節季月に至りてはコールマネーは頗る欠乏を告ぐるを例とす故に若し金融緊縮の時代に入り各銀行の資金潤沢ならざる時に至らばコールマネーは殆んど枯渇すべし将来一般銀行の志想が変化を致しコールマネーを以て其支払準備と見做すべき時代の来るにあらざる以上は繁忙の場合にコールマネーは不況に陥るべし次に商業手形は如何金融緊縮の時には銀行は直接に手形を買取るの利益を認めビルブローカーの手を待たざるもの亦多かるべし斯く悲観的の一面を観察すれば繁忙の時期に於てビルブローカーは立脚地を失ふが如きも他の一面に於ては斯業をして大飛躍を試みしむるの余地を存せり…」(藤本清兵衛「ビルブローカーの地位」大阪銀行通信録、1903年11月号)