コンテンツにスキップ

矢山哲治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
矢山哲治(1938年頃撮影)

矢山 哲治(ややま てつじ、1918年4月28日 - 1943年1月29日)は日本詩人九州帝国大学在学中、同人雑誌「こをろ」を主宰。 福岡県福岡市出身。

1936年福岡県中学修猷館[1]、1939年旧制福岡高等学校理科甲類[2]を経て、九州帝国大学農学部繰り上げ卒業。福岡高校在学中から当時火野葦平の率いていた『九州文学』同人となり『九州文学』、『文藝首都』などに詩やエッセイを掲載。この時期1938年7月、福岡高校生であった矢山は『九州文学』を詩人の立原道造に贈り、文通を始め、当時立原が企図していた詩誌『午前』への参加を誘われた[注釈 1]

1939年、第一詩集『くんしやう』を上梓。この頃、保田與重郎太宰治檀一雄ら『日本浪曼派』の作家、評論家を愛読する。九州帝国大学入学前後は火野葦平批判を行い九州文学を脱退し、新たに福岡高校卒業生や九州帝大在学生とともに『こをろ』を創刊する。同人には島尾敏雄真鍋呉夫阿川弘之那珂太郎小島直記一丸章らが居り、周辺には伊達得夫がいた。『こをろ』創刊号には立原道造の矢山宛書簡が「詩人の手紙」と題され掲載された。1940年、第二詩集『友達』、第三詩集『柩』を相次いで出版。

1942年、陸軍入営。両肺が冒されていると診断され入院し、除隊。このころ失意大きく情緒不安定になる。1943年1月29日、自宅から1キロほど東の住吉神社ラジオ体操をした帰り、西鉄大牟田線薬院駅西鉄平尾駅間の上り踏切で列車に轢かれ死亡。自殺であるとも事故であるとも言われている。戒名は詩心院釈哲亮居士[3]

著書

[編集]
  • 矢山哲治全集 未來社 1987

評伝

[編集]
  • 『矢山哲治』(近藤洋太著、小沢書店)
  • 『お前よ美しくあれと声がする』(松原一枝著、集英社) 第10回 田村俊子賞受賞作。
  • 『矢山哲治と「こをろ」の時代』(杉山武子著、績文堂出版)
  • 『こをろの時代 矢山哲治と戦時下の文学』(田中艸太郎著、葦書房)

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 1938年12月3日、立原は旧友である福岡高校教授秋山六郎兵衛を訪ねる。ここで福岡高校の矢山に迎えられ、矢山とともに久留米の独立山砲隊第三連隊入隊中の檀一雄を訪ねるも不在で会えず。矢山の案内で北原白秋の郷里である柳河に行く。矢山と別れ佐賀を経て、4日長崎の武基雄の生家である武医院に到着したが、6日に武医院にて発熱・喀血し入院する。10日、福岡より矢山が見舞いに来る。13日、長崎を立ち、下関まで矢山に付き添われて、特急「富士」で上京。14日自宅に帰った。小川和佑「立原道造年譜」『現代詩読本 立原道造』思潮社、1978年 pp.238-239

出典

[編集]
  1. ^ 『修猷館同窓会名簿 修猷館235年記念』(修猷館同窓会、2020年)同窓会員33頁
  2. ^ 『福岡高等学校一覧 第19年度(自昭和15年4月至昭和16年3月)』(福岡高等学校編、1941年)203頁
  3. ^ 大塚英良『文学者掃苔録図書館』(原書房、2015年)p.251