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相馬邦之助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
相馬邦之助
生誕 1859年7月25日
青森県弘前市袋町
死没 (1918-06-02) 1918年6月2日(58歳没)
東京府浅草区下平右衛門町の自宅
国籍 日本の旗 日本
著名な実績 彫刻
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相馬 邦之助(そうま くにのすけ、SOMA KUNINOSUKE、1859年安政6年)7月25日 - 1918年大正7年)6月2日)は、日本彫刻家[1]

別名(雅号):相馬 仙齢(そうま せんれい)。

弘前市に生まれる。

平尾魯仙に絵画を学び、日暮里に住んでいた象牙職人、田中嶺玉(れいぎょく)のもとで根付技法を学ぶ。

来歴

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1859年(安政6年)7月25日、弘前藩の中級藩士・相馬元三郎の四男として生まれる。

1865年(慶応元年)4月12日、父元三郎死去。

1883年(明治16年)6月29日、最初の妻タカとの間に長女てい誕生。

その後、妻タカ死去

1889年(明治22年)11月、岡倉天心本多天城高屋肖哲らと妙義山へ写生旅行[2]

1890年(明治23年)3月、著書『象牙彫刻法』(東京国立博物館所蔵)を出版。

1893年(明治26年)5月、シカゴ万博において、牙彫『婦人小児像』(東京国立博物館所蔵)を出品。

同年8月、後妻かつとの間に長男冀誕生。

1897年(明治30年)10月、二男博誕生。

在籍期間は明らかでないが、青山女子手芸(中等部)において図工の教師として勤務していた[3]

1918年(大正7年)6月2日、東京府浅草区下平右衛門町の自宅にて死去。

脚注

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  1. ^ 相馬邦之助作の検索結果 文化遺産オンライン”. bunka.nii.ac.jp. 2023年7月6日閲覧。
  2. ^ 「高屋肖哲年譜」
  3. ^ 金子一夫著「明治期中等学校図画教員の研究-7-東京府・中部地方」