相川春喜
あいかわ はるき 相川 春喜 | |
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生誕 |
矢浪 久雄 1909年8月15日 - 1953年4月29日 大日本帝国・新潟県高田市(現・新潟県上越市)南土橋 |
死没 |
1953年4月29日(43歳没) 日本・東京都渋谷区千駄ヶ谷4丁目26番7号 |
墓地 | 多磨霊園 |
住居 | 日本 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 富山中学校 |
職業 |
科学史家 社会運動家 |
活動期間 | 1928年 - 1953年 |
時代 | 昭和時代初期 - 昭和時代中期 |
雇用者 |
産業労働調査所 プロレタリア科学研究所 明治大学 日本新聞社 |
団体 |
社会研究会 全国学聯支部 産業労働調査所 プロレタリア科学研究所 唯物論研究会 日本共産党 |
著名な実績 | アジア地域における抑留者引揚運動に尽力。 |
活動拠点 | 大日本帝国 → ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 → 日本 |
肩書き | 日本技術文化研究所設立者 |
配偶者 | 相川 さだ(1933年 - 1953年) |
相川 春喜(あいかわ はるき、1909年〈明治42年〉8月15日 - 1953年〈昭和28年〉4月29日)は、日本の科学史家、社会運動家。本名は矢浪久雄。
第二次世界大戦前の時期に唯物論研究会に参加し、技術史、科学哲学を中心にした理論学習運動の中核を担い、戦後は、シベリア抑留を経て、アジア地域における抑留者引揚運動に尽力した。第四高等学校中退[1]。
略歴
[編集]新潟県高田市(現・新潟県上越市)南土橋出身。新潟師範附属小学校、佐渡河原田小学校、佐渡中学校、富山中学校を経て、第四高等学校文科乙類に首席で入学後、社会研究会、全国学聯支部に加盟。1928年6月の学生ストライキの責任者となる。
1929年、卒業試験後、雑誌「広場」の編集責任者であることを理由として卒業を取り消され、退学を命ぜられる。同年3月上京してプロレタリア文化運動に参加。同年、早稲田第一高等学院を除名される。1930年、第一ラミー紡績争議に参加。その後、産業労働調査所に就職。1932年、プロレタリア科学研究所に転職。同年、唯物論研究会に参加し、研究組織部副部長に就任。1933年、『日本資本主義発達史講座』に「農村経済と農業恐慌」を発表。同年、大宅壮一の媒酌でさだ夫人と結婚。
1936年6月26日、時局新聞の編集を行っていた際に共産党員とともに検挙。さらに取り調べを通じてコム・アカデミー事件に関与した疑いで検挙[2]。取り調べを通じて転向を余儀なくされる[3]とともに治安維持法第二条(実行に関する協議)及び第三条(煽動)違反で起訴された[4]。
1943年、同盟通信社嘱託、明治大学講師に就任する。 1944年、日本技術文化研究所を設立。同年、召集後、関東軍のソ連国境東寧独立兵団に配属され満洲へ赴く。1945年の終戦時には炊事兵を務めていた。 その後、戦線逃亡し、老骨山でソ連軍に投降。その後4年半にわたりシベリアに抑留される。
1946年、ハバロフスクの日本新聞社の日本人側編集責任者となり、ハバロフスク地方捕虜民主運動に参加する[5]。1949年、帰国する。
1950年、日本共産党宣伝教育部に所属し、党本部引揚対策に参加、また、「帰還者同盟」及び「帰還者の友」に参加。
1952年、雑誌「ソヴェト同盟」の仕事を手伝う。
1953年、在華同胞帰国協力会の総務となる。日本共産党本部で選挙活動中に倒れ、死去。
著書
[編集]- 『農村経済と農業恐慌』(岩波書店) 1933年
- 『歴史科学の方法論』(白揚社) 1935年
- 『技術論』(三笠書房) 1935年
- 『現代技術論』(三笠書房) 1940年
- 『技術論入門』(三笠書房) 1941年
- 『技術の理論と政策』(紀文社) 1942年
- 『産業技術』(白揚社) 1942年
- 『東南亜の資源と技術』(三笠書房) 1943年
- 『技術及び技能管理』(東洋書房) 1944年
- 『文化映画論』(霞ケ關書房) 1944年
共著
[編集]- 『現代政治の課題』(原隨園, 小林高記, 加田哲二, 樺俊雄共著、昭和書房) 1942年
- 『生産増強の方策』(山崎早市, 郷古潔, 松前重義, 大河内正敏, 土屋清, 石橋湛山, 原祐三, 美濃部洋次, 三輪壽壯, 後藤清, 安藤政吉, 大橋静市共著、霞ケ關書房) 1943年
- 『発明発見図説』(山崎俊雄, 田中実共著、岩崎書店) 1952年
脚注
[編集]- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 1頁。
- ^ 共産党シンパの学者、文化人をいっせい検挙『東京日日新聞』昭和11年7月11日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p196 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 平野義太郎も転向の意思を洩らす『東京朝日新聞』昭和11年12月15日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p197)
- ^ 治安維持法を適用し首脳部を送検『東京朝日新聞』昭和11年12月2日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p197)
- ^ 相川は「在ソ民主運動」と自称した。
参考
[編集]- 相川春喜小傳刊行会編『相川春喜小傳』1955年(昭和30年)