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相川うめ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
あいかわ うめ

相川 うめ
「まるは食堂」店頭にはうめを模した人形が置かれている(手前左)
生誕 石黒 うめ[1]
(1911-08-17) 1911年8月17日
日本の旗 日本愛知県知多郡豊浜町(現在の南知多町豊浜
死没 (2008-10-26) 2008年10月26日(97歳没)
職業 実業家
テレビ番組 ビートたけしのTVタックルテレビ朝日
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相川 うめ(あいかわ うめ、1911年明治44年)8月17日[2] - 2008年平成20年)10月26日[1])は、愛知県知多郡南知多町の「料理旅館・まるは食堂」の創業者。

人物

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1911年(明治44年)8月17日[2]、愛知県知多郡豊浜町に暮らす半農半漁の家において、5女として生を受ける[3]豊浜尋常小学校を卒業後、1924年大正13年)に岡崎市にある紡績工場に集団就職[1]。1年半勤めた後、故郷の豊浜に戻り、船で生計を立てた[1]

1932年昭和7年)に結婚したものの、夫は同年に召集された[4]。復員後、1943年(昭和18年)に再召集[4]。1946年(昭和21年)3月、戦死公報が届き、夫の死を知る[4]。14歳の長子を筆頭に4人の子供が遺された[4]。隣家に子供を預けては日雇い労働に勤しみ、その賃金を隣家と折半する生活を続けることになった[4]

1947年(昭和22年)秋、名古屋から夫の戦友を名乗る来客があった[4]。夫と結んだ戦地での約束を果たすためだった[4]。その、息子を魚屋にするという夢を叶えるため、自身は豊浜から名古屋への魚の行商を行った[1]。朝4時に豊浜漁港の市場で仕入れた魚をブリキの缶に詰め、バスと名鉄と市電を乗り継いで、名古屋市の中公設市場まで2時間掛けて通った[4]。その電車の車内で交わされる乗客との会話により、うめは情報の重要性を認識したという[1]。1947年には夫の戦友と再婚し、1951年(昭和31年)には双子をもうけた[4]

1950年(昭和25年)5月1日、魚屋「まるは」を開業[5]。この「まるは」は師崎初の魚屋であったという[1]。このときの店舗は5坪で、借地であった[1]。そのため、後に店の立ち退きを要求されることになり、うめは土地を担保に借入するということを学んだという[1]

1955年(昭和30年)には店を増築、1961年(昭和36年)には旅館認可を取得し、「季節旅館・まるは食堂」となった[5]。いずれも客の要望に応じたものであった[1]。うめは「まるは」のグループを最終的に6店舗にまで拡大している[5]

80歳を超えても精力的に働き、朝は5時に起き、夜は11時まで旅館にいることも多かったという[3]。2008年(平成20年)10月26日に98歳で亡くなっている[5]

遺言

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「うめさんの遺言」として以下がまるは公式サイトに掲載されている。

  • 信者を創れ。 
  • お客様に喜んでくれる事をやればええ。
  • まるはのようにやればええ。
  • 報連相をちゃんとやればええ。
  • 儲けんでもええ、儲かる。

伝記

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  • 三田村博史『潮風の一本道 うめさんの魚料理の城づくり80年』風媒社、1994年。 
筆者の三田村は執筆当時高校教師であり、相川うめ本人からの聞き取りを元に執筆した一代記[6]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j 西悦子 2015, p. 1.
  2. ^ a b 『現代物故者事典』 2006〜2008、日外アソシエーツ、2009年3月25日、3頁。ISBN 978-4-8169-2165-0 
  3. ^ a b 愛知県社会科教育研究会尾張部会 1996, p. 114.
  4. ^ a b c d e f g h i 田中啓夫「わいどインタビュー 南知多町で旅館を経営 相川うめさん(80) 細腕に魚担いで半生 商売は「ロウソク哲学」 「念ずれば開花」と笑顔」『毎日新聞朝刊』1991年11月15日。
  5. ^ a b c d 会社概要”. まるは食堂. 2021年2月11日閲覧。
  6. ^ 「知多・豊浜の名物おばあちゃん 行商から旅館経営、一代記に高校教諭執筆「勇気づけられる」」『朝日新聞』1994年3月23日。

参考文献

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  • 愛知県社会科教育研究会尾張部会 編『尾張の女性』浜島書店〈ザ・尾張シリーズ 第4集〉、1996年3月1日。ISBN 4-8343-9001-2 
  • 西悦子 著「相川うめ」、愛知女性史研究会 編『愛知近現代女性史人名事典』ほっとブックス新栄、2015年5月3日。ISBN 978-4-903036-23-6