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百済王慶仲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
百済王慶仲
時代 平安時代初期
生誕 不明
死没 承和8年4月20日841年5月14日
別名 慶忠
官位 従四位下民部大輔
主君 淳和天皇仁明天皇
氏族 百済王氏
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百済王 慶仲(くだらのこにきし けいちゅう)は、平安時代初期の貴族。名は慶忠とも記される。官位従四位下民部大輔

経歴

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淳和朝天長2年(825年従五位下から従五位上に昇叙される。

仁明朝承和4年(837年従五位上から正五位下に昇叙され、承和6年(839年)従四位下・民部大輔に至る。また、時期は不明ながらこの間に武蔵守を務めた。承和7年(840年右大臣藤原三守の薨去に際して、その邸宅に参議文室秋津と共に派遣され、従一位贈位を宣べている[1]。承和8年(841年)4月20日卒去。最終位階は従四位下。

人物

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百済王氏の中でも有用な人物で、大器ではなかったが、有能な官吏との評価があった[2]

釣りの技術を持っていると言われ、大勢の人が慶仲と釣りをしたが、魚は専ら慶仲の釣り針を呑み込むばかりで、慶仲は瞬く間に百余匹の魚を釣り上げたという[2]

また、諸大夫の中で壮健さを賞賛された。ある時、慶仲が東国から平安京へ戻る際、人々が争って渡船しようとしている渡し場に着いたところ、非常に悪賢い者が一味を率いてやってきて、人々を追い払って自分たちだけが渡船しようとしたが、人々はこれを恐れて敢えて抗議をしなかった。そこで慶仲は一回で打ったところ、悪賢い者の額の皮が剥がれ垂れて顔を覆ってしまい、その者は惑って倒れ伏し、一味も散り散りに退散した。人々は非常に喜び、船に棹して競って川を渡ったという[2]

官歴

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六国史』による。

脚注

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  1. ^ 『続日本後紀』承和7年7月7日条
  2. ^ a b c 『続日本後紀』承和8年4月20日条

参考文献

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  • 森田悌『日本後紀 (下)』講談社講談社学術文庫〉、2007年
  • 森田悌『続日本後紀 (上)』講談社〈講談社学術文庫〉、2010年
  • 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年