百済王慶仲
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時代 | 平安時代初期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 承和8年4月20日(841年5月14日) |
別名 | 慶忠 |
官位 | 従四位下・民部大輔 |
主君 | 淳和天皇→仁明天皇 |
氏族 | 百済王氏 |
百済王 慶仲(くだらのこにきし けいちゅう)は、平安時代初期の貴族。名は慶忠とも記される。官位は従四位下・民部大輔。
経歴
[編集]淳和朝の天長2年(825年)従五位下から従五位上に昇叙される。
仁明朝の承和4年(837年)従五位上から正五位下に昇叙され、承和6年(839年)従四位下・民部大輔に至る。また、時期は不明ながらこの間に武蔵守を務めた。承和7年(840年)右大臣・藤原三守の薨去に際して、その邸宅に参議・文室秋津と共に派遣され、従一位贈位の詔を宣べている[1]。承和8年(841年)4月20日卒去。最終位階は従四位下。
人物
[編集]百済王氏の中でも有用な人物で、大器ではなかったが、有能な官吏との評価があった[2]。
釣りの技術を持っていると言われ、大勢の人が慶仲と釣りをしたが、魚は専ら慶仲の釣り針を呑み込むばかりで、慶仲は瞬く間に百余匹の魚を釣り上げたという[2]。
また、諸大夫の中で壮健さを賞賛された。ある時、慶仲が東国から平安京へ戻る際、人々が争って渡船しようとしている渡し場に着いたところ、非常に悪賢い者が一味を率いてやってきて、人々を追い払って自分たちだけが渡船しようとしたが、人々はこれを恐れて敢えて抗議をしなかった。そこで慶仲は一回鞭で打ったところ、悪賢い者の額の皮が剥がれ垂れて顔を覆ってしまい、その者は惑って倒れ伏し、一味も散り散りに退散した。人々は非常に喜び、船に棹して競って川を渡ったという[2]。
官歴
[編集]『六国史』による。
- 時期不詳:従五位下
- 天長2年(825年) 正月4日:従五位上
- 時期不詳:武蔵守
- 承和4年(837年) 10月28日:正五位下
- 承和6年(839年) 正月7日:従四位下。正月11日:民部大輔
- 承和8年(841年) 4月20日:卒去(従四位下)