白河鯉洋
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白河 鯉洋(しらかわ りよう、1874年(明治7年)3月2日 - 1919年(大正8年)12月25日[1])は、衆議院議員(立憲国民党)、ジャーナリスト、東洋学者。本名は次郎。
経歴
[編集]福岡県京都郡豊津村(現在のみやこ町)出身の豊津藩(小倉藩)士で、豊前宇都宮氏の末裔である。
1897年(明治30年)、東京帝国大学文科大学漢学科を卒業。卒業後は神戸新聞、九州日報の主筆を務めた。1903年(明治36年)、清に渡って南京の江南高等学堂の総教習を務めた。帰国後は、早稲田大学講師、関西日報客員を務めた。1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。
墓所は多磨霊園(6-2-6)と日光市浄光寺(田岡嶺雲との連理塚)。
家族
[編集]著書
[編集]- 『孔子』(東亜堂書房、1900年)
- 『支那学術史綱』(博文館、1900年)- 国府犀東と共著
- 『支那文明史』(博文館、1900年)- 国府犀東と共著
- 『王陽明』(博文館、1900年)
- 『立花宗茂』(岡村書店、1902年)
- 『青年聖訓』(聚精堂、1911年)
- 『古典教育学』(聚精堂、1911年)
- 『諸葛孔明』(敬文館、1911年)
脚注
[編集]- ^ 『官報』第2222号、大正8年12月29日
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。