白堅武
白堅武 | |
---|---|
プロフィール | |
出生: | 1880年(清光緒6年) |
死去: |
1938年(民国27年) 中華民国河南省南楽県 |
出身地: | 清直隷省河間府交河県常家荘 |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 白堅武 |
簡体字: | 白坚武 |
拼音: | Bái Jiānwǔ |
ラテン字: | Pai Chien-wu |
和名表記: | はく けんぶ |
発音転記: | バイ ジエンウー |
白 堅武(はく けんぶ)は、中華民国の政治家・軍人。字は馨遠。別号は馨亜、興亜。
事跡
[編集]清末は、県考、府考、院考のいずれでも案首(首席合格者)となっている。1910年(宣統2年)、天津法政学堂に入学し、このときに中国同盟会に加入した。翌年9月、広西提督陸栄廷の顧問となった。
1918年(民国7年)、直隷省代表として上海の南北和平会議に参加した。その後、南京に向かい、直隷派の江蘇都督李純の顧問となった。翌年、李が自殺すると、白堅武は同じ直隷派の呉佩孚配下に転じている。
1921年(民国10年)、呉佩孚が両湖巡閲使兼直魯豫巡閲副使に就任すると、白堅武はその政務処処長に任ぜられた。1924年(民国13年)、第2次奉直戦争で呉が敗北すると、白は天津に逃れた。その翌年に呉が再起して十四省討賊聯軍総司令を称すると、白は再びその政務処処長となっている。しかし、1927年(民国16年)に呉が国民革命軍に最終的に敗北すると、白は日本に亡命した。
日本での白堅武は、呉佩孚の復権を目指して有力者に接触したが、成果はあがらず天津に戻った。以後、白は呉を首班とする「華北国」の樹立に向けて奔走することになる。1931年(民国20年)6月、土肥原賢二らの助力の下で、白は天津で暴動を引き起こそうとしたが、失敗に終わった。1933年(民国22年)、かねてから親交のあった河北省政府主席于学忠に「華北国」樹立を薦めたが拒否され、後にその暗殺を謀ったがやはり失敗に終わる。その後、満州国に赴き、実業総長張燕卿の支援を獲得した。
1935年(民国24年)、白堅武は天津に戻る。同年6月28日、やはり土肥原らの支援を受け、白は自ら総司令として石友三と「華北正義自治軍」を組織し、「華北国」の樹立を図った(豊台事変、豊台暴動)。しかし、商震軍および万福麟軍に鎮圧されてまたしても失敗に終わり、満州へ逃亡の後に再び天津に戻っている。同年11月、宋哲元が冀察政務委員会委員長に就任すると、白は同委員会参議に任ぜられた。日中戦争(抗日戦争)が勃発して天津が陥落した後、白は河北省大名県に撤退した宋の下を訪れている。
しかし同年末に宋哲元が病により軍を離れると、翌1938年(民国27年)、白堅武は馮玉祥[1]に捕縛されてしまう。白は「通敵叛国」の罪により、河南省南楽県で銃殺刑に処せられた。享年59。
注
[編集]参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 「白堅武」天津図書館ホームページ
- 郭卿友主編『中華民国時期軍政職官誌 上』甘粛人民出版社、1990年。ISBN 7-226-00582-4。
- 陳民「馮玉祥」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第8巻』中華書局、1996年。ISBN 7-101-01328-7。
- 『北支事件及宋哲元軍不法事件に就て』陸軍省新聞班 1935年7月30日