町田公雄
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基本情報 | |
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出身地 | 日本 千葉県銚子市 |
生年月日 | 1951年3月5日(73歳) |
身長 体重 |
176 cm 80 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 外野手 |
プロ入り | 1974年 ドラフト5位 |
初出場 | 1976年4月11日 |
最終出場 | 1977年10月16日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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町田 公雄(まちだ ひさお[1]、1951年3月5日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手(外野手)。
来歴・人物
[編集]銚子商では1968年の春の甲子園に出場、準々決勝に進出するが倉敷工に敗退[2]。同年夏の県大会でも決勝に進むが、千葉商に敗れ甲子園出場を逸する。高校の同期生に市原明、杉山茂がいる。
卒業後は日本石油に進み、1969年から都市対抗野球大会の常連として活躍。1971年の同大会ではチームの準々決勝進出に貢献[3]。1972年の日本産業対抗野球大会は五月女豊の好投もあって勝ち進み、決勝で鐘淵化学を降しチームの初優勝に貢献、優秀選手に選出された[4]。この時のチームメイトに秋元国武、磯部史雄らがいた。1973年の産業対抗は準決勝で熊谷組に敗退[5]。同年の第10回アジア野球選手権大会の日本代表となる。
1974年のドラフト5位で阪神タイガースに入団[6]。1976年に一軍に上がり、6月には左翼手、八番打者として初先発、同年は12試合に先発出場を果たす。翌1977年には46試合に出場したものの、1978年は出場機会がなく、将来を考えて自身の意向により同年限りで退団した。社会人屈指の強打者として期待されたが、守備が課題で代打としての起用が多かった。若菜嘉晴の前に、背番号39をつけていた選手である。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1976 | 阪神 | 39 | 59 | 54 | 3 | 10 | 2 | 0 | 0 | 12 | 1 | 1 | 1 | 0 | 1 | 4 | 0 | 0 | 9 | 2 | .185 | .237 | .222 | .460 |
1977 | 46 | 47 | 45 | 7 | 10 | 4 | 0 | 1 | 17 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 12 | 1 | .222 | .255 | .378 | .633 | |
通算:2年 | 85 | 106 | 99 | 10 | 20 | 6 | 0 | 1 | 29 | 3 | 2 | 1 | 0 | 1 | 5 | 0 | 1 | 21 | 3 | .202 | .245 | .293 | .538 |
背番号
[編集]- 39 (1975年 - 1978年)