田嶼碩朗
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田嶼 碩朗 (たじま せきろう) | |
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生誕 |
1878年7月4日[3] 福井県三国町(現坂井市)[2] |
死没 | 1946年3月30日(67歳没) |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京美術学校[3] |
著名な実績 | 彫刻家 |
代表作 |
「クラーク像」[3] 「聖恩碑」 |
公式サイト |
sekirou-tajima |
活動期間 | 明治 - 昭和[1] |
影響を受けた 芸術家 |
正木直彦[2] 高村光雲[2] |
田嶼 碩朗(たじま せきろう、1878年7月4日 - 1946年3月30日)は日本の彫刻家[1]。明治期から昭和時代初期にかけて活躍した[1]。福井県出身[3]。
来歴
[編集]1878年(明治11年)7月4日、福井県三国町(現坂井市)に生まれる[2]。故郷で木彫りを学び、後に上京し東京美術学校彫塑科(現東京芸術大学)に入学[2]、在学中は正木直彦、高村光雲に師事[2]。
卒業後は院展、帝展などで入賞を繰り返した[2]。後に彫刻家として東京と札幌にアトリエを構える[2]。生前は詩人室生犀星と親しかった[3]。
北海道および樺太(現サハリン)で銅像制作を主に手がけたが、その作品の多くは戦時中の金属供出により失われほとんど現存していない[2]。
碩朗の末娘による著作「彫刻家 田嶼碩朗」によれば、1926年(大正15年)5月14日建立のクラーク像[4](以後単に「元像」)は戦争のために1943年(昭和18年)6月[5]に金属供出され[注釈 1]、戦後1948年(昭和23年)10月[4]に胸像再建立のため田嶼の残した元像製作時の石膏原型を使用し元像の造形に忠実に再鋳造を行った[6]ところ、「田嶼が既に他界していたこと」「監修として別の彫刻家である加藤顕清[6]が関わっていたこと」の2点が原因となり、加藤を単独製作者と誤記する状況が発生した、と説明している[3][2]。これらは元像石膏原型の写真が決め手となり判明した[3]。
作品
[編集]- 「W.S.クラーク胸像[7]」
- 1926年(大正15年)5月14日建立[4]、1943年(昭和18年)6月に戦争のため金属供出[5]、1948年(昭和23年)10月再建立[4]。
- 胸像、北海道札幌市北区、北海道大学構内[3][7]。現存像は田嶼碩朗の石膏原型を使用し加藤顕清監修の元に再建立されたもの[6]。デザインは東京美術学校時代の恩師である正木直彦[4]。
脚注
[編集]- 注釈
- 脚注
- ^ a b c “「彫刻家 田嶼碩朗」”. 朝日新聞デジタル. (2016年2月11日)
- ^ a b c d e f g h i j “『彫刻家 田嶼碩朗』 /北海道”. 毎日新聞地方版. (2016年1月23日)
- ^ a b c d e f g h “北大クラーク像は亡父の作品 末娘が真相究明し著書に 帯広”. 十勝毎日新聞社ニュース. (2016年3月9日)
- ^ a b c d e “ボランティア・ニュース No.20 2011.3” (PDF). 北海道大学総合博物館. p. 2 (2011年3月). 2016年10月13日閲覧。
- ^ a b c “W. S. クラーク博士関係文献目録 北大時報 No.383 昭和61(1986)2月”. 北海道大学附属図書館 (1986年2月). 2016年10月13日閲覧。
- ^ a b c “札幌の野外彫刻と彫刻家たち”. 札幌芸術の森美術館. 2016年10月13日閲覧。
- ^ a b “W.S.クラーク胸像”. 札幌芸術の森美術館. 2016年10月13日閲覧。
- ^ a b “大通公園 公園案内”. 札幌市公園緑化協会. 2016年10月13日閲覧。
- ^ a b “東工大、今日の一枚(34)”. 東京工業大学 (2010年6月28日). 2016年10月13日閲覧。
- ^ a b “浅羽苗邨先生像”. 札幌芸術の森美術館. 2016年10月13日閲覧。
参考文献
[編集]- 山崎貞子『彫刻家 田嶼碩朗』共同文化社、2016年1月15日。ISBN 978-4877392772。