田中昌太郎
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田中 昌太郎(たなか しょうたろう、1872年11月20日(明治5年10月20日) - 1964年2月25日[1])は、日本の法曹(検察官、弁護士)。立命館大学元学長。立命館中学校父兄会会長。京都府船井郡園部村(のち園部町、現・南丹市)生まれ。
略歴
[編集]- 1872年(明治5年) - 京都府船井郡園部村に生まれる[2]。田中家は代々園部村に住し、庄屋を勤めた旧家だった[2]。
- 1893年(明治26年) - 第三高等中学校法学部(後の京都大学)卒業、同年7月司法官試補京都区裁判所詰[2]。
- 1895年(明治28年)2月 - 歩兵少尉[2]。日露戦役に参加した[2]。
- 1897年(明治30年)5月 - 判事[2]。
- 1904年(明治37年)12月 - 歩兵中尉[2]。
- 1910年(明治43年)4月 - 東京控訴院判事[2]。
- 1912年(明治45年)2月 - 千葉地方裁判所検事[2]。
- 1913年(大正2年)4月 - 長野地方裁判所検事正[2]。
- 1918年(大正7年)6月 - 水戸地方検察庁検事正[3]。
- 1923年(大正12年)4月 - 岡山地方検察庁検事正[3]。
- 1926年(昭和元年)12月 - 神戸地方検察庁検事正[3]。
- 1929年(昭和4年)3月 - 京都地方検察庁検事正[3]。
- 1933年(昭和8年)6月 - 札幌控訴院検事長[3]。
- 1935年(昭和10年)10月 - 定年退官[3]。
- 1940年(昭和15年)5月 - 立命館大学学長( - 1941年(昭和16年)2月)[4]。
- 1946年(昭和21年) - 弁護士登録[3]。