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田中国重

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田中国重

田中 国重(たなか くにしげ、 1870年1月18日明治2年12月17日) - 1941年昭和16年)2月19日[1])は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍大将位階勲等正三位勲一等功三級

経歴

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薩摩国出身。田中国高の長男として生れる。中学造士館第五高等中学校を経て、1893年7月、陸軍士官学校(4期)を卒業。翌年3月、騎兵少尉任官、近衛騎兵大隊付となり日清戦争に従軍した。騎兵第6連隊付、陸士教官、中央幼年学校馬術教官を経て、1900年12月、陸軍大学校(14期)を優等で卒業した。

騎兵第10連隊中隊長、参謀本部員、大本営参謀を経て、日露戦争満洲軍参謀として出征した。後備混成第4旅団参謀長、アメリカ大使館付武官、騎兵第16連隊長、侍従武官イギリス大使館付武官などを経て、1918年7月、陸軍少将に進級。

パリ講和会議全権委員随員、参謀本部第2部長、ワシントン会議随員、騎兵第3旅団長を歴任。1922年8月、陸軍中将に進級し、第15師団長、近衛師団長、台湾軍司令官を務める。1928年8月、陸軍大将となり、軍事参議官を勤め、1929年3月、予備役に編入された。1933年から死去するまで明倫会主宰であった。

1941年2月19日、心臓麻痺のため薨去[2]享年73。戒名は大輝院殿明譽慈德國重大居士。墓所は港区南青山龍泉寺

栄典

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位階
勲章

親族

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脚注

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  1. ^ 田中国重とは コトバンク
  2. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)17頁
  3. ^ 『官報』第3258号「叙任及辞令」1894年5月12日。
  4. ^ 『官報』第1825号「叙任及辞令」1918年9月2日。
  5. ^ 『官報』第3035号「叙任及辞令」1922年9月12日。
  6. ^ 『官報』第3684号「叙任及辞令」1924年12月2日。
  7. ^ 『官報』第343号「叙任及辞令」1928年2月22日。
  8. ^ 『官報』第842号「叙任及辞令」1929年10月19日。
  9. ^ 『官報』第3749号「叙任及辞令」1895年12月25日。
  10. ^ 『官報』第2431号「授爵・叙任及辞令」1920年9月8日。
  11. ^ 『官報』第151号「叙任及辞令」1927年7月1日。
  12. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。