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田中千秋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
田中 千秋
時代 江戸時代後期
生誕 文化12年(1815年
死没 安政元年8月30日1854年10月21日
改名 田中秋太郎、新兵衛[1]
別名 士禾(字)、紹斎(号)[2]
幕府 江戸幕府佐渡奉行所
氏族 甲斐源氏佐渡田中家
父母 田中葵園、酒匂かつ
兄弟 藤木実斎田中千齢
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田中 千秋(たなか ちあき?)は江戸時代後期の佐渡奉行所地役人。佐渡田中家12代。

経歴

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文化12年(1815年)[2]保科家の次男として生まれ、田中葵園の養子となった[3]文政12年(1829年)学問所見習、天保元年(1830年)金蔵役・学問所並役助、次いで学問所並役[4]。天保11年(1840年)2人扶持[4]。天保12年(1841年)沢根番所役[4]

弘化3年(1846年)養父が死去し、後職を継いだ[4]。遺言状では、もし浪人になっても他国に出ず、真光寺・国分寺等に身を寄せながら再仕官を目指し、無理だった場合は医者になることを提案されている[5]

安政元年(1854年)8月30日40歳で死去した[2]。法名は空谷院定誉秋水紹斎居士[4]

親族

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脚注

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  1. ^ 萩野 1927, p. 64.
  2. ^ a b c 田中 1931, p. 17ウ.
  3. ^ a b c 岩木 1927, p. 320.
  4. ^ a b c d e 佐藤 2003, p. 20.
  5. ^ 児玉 2003, pp. 35–37.
  6. ^ 児玉 2003, pp. 30–31.
  7. ^ 児玉 2003, p. 35.
  8. ^ 田中 1931, p. 28ウ.

参考文献

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  • 「葵園先生年譜」『葵園遺稿』田中完三、1931年9月。 
  • 佐藤利夫「佐渡田中家の系譜」『地役人の系譜 田中葵園資料寄贈記念展報告書』相川郷土博物館、2003年3月。 
  • 児玉信雄「田中葵園(従太郎)の業績」『地役人の系譜 田中葵園資料寄贈記念展報告書』相川郷土博物館、2003年3月。 
  • 岩木拡『相川町誌』相川町役場、1927年7月。 NDLJP:1173593/170
  • 萩野由之『佐渡人物志』佐渡郡教育会、1927年10月。 NDLJP:1188906/43