王仲文
時代 | 飛鳥時代 - 奈良時代 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
改名 | 王仲文→東楼→王仲文[1] |
別名 | 中文 |
官位 | 従五位下天文博士 |
主君 | 文武天皇→元明天皇→元正天皇 |
王 仲文(おう ちゅうぶん/ちゅうもん)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての官人・陰陽師。名は中文とも記される。初めは僧侶で法名は東楼。官位は従五位下・天文博士。
経歴
[編集]高句麗を由来とする渡来人とされる[2]。王仲文は、漢姓・漢名の中国人名である[3]。高句麗人の人名は基本的に高句麗滅亡まで中国化することはなかった[4][5][6][7][8]。全徳在(朝鮮語: 전덕재、檀国大学)は、王仲文は、中国が朝鮮に設置した楽浪郡・帯方郡で支配層を形成していた中国系豪族・楽浪王氏の出身であり、314年頃の高句麗の攻撃による楽浪郡・帯方郡滅亡後、高句麗に吸収された楽浪王氏の遺民とみて間違いない、と指摘している[3]。
法名を東楼と称する僧侶であったが、文武朝の大宝元年(701年)勅令により、恵耀・信成と共に還俗して本姓に復し、王中文と名乗った。その後時期は不明ながら、官人考試帳に陰陽師・高金蔵(以前同時に還俗した信成)や陰陽博士・觮兄麻呂(以前同時に還俗した恵耀)らと共に、陰陽師として占卜効験多者最により「中上」の評価されている記録がある(この時の官位は従六位下行天文博士。年齢は45歳)。
元正朝の養老2年(718年)従五位下に叙爵する。養老5年(721年)百官の中から学業を修め模範とするに足る者を選んで褒賞を与えたが、陰陽に優れる者として、津守通・角兄麻呂らと共に、絁10疋・絹糸10絇・布20端・鍬20口を与えられた。この時に選ばれた人物は、『藤氏家伝』下に神亀年間(724年 - 729年)の学芸の士として列挙されたものが多く、皇太子首皇子(のちの聖武天皇)の教育に資するため、文芸学術に優れたものを近侍させたものと見られる[9]。
養老から天平年間(717年 - 749年)の筮卜の大家とされている[10]。
官歴
[編集]『続日本紀』による。
- 大宝元年(701年) 8月2日:還俗(東楼から王中文に改姓改名)
- 時期不詳:従六位下。天文博士[11]
- 時期不詳:正六位上
- 養老2年(718年) 正月5日:従五位下
- 養老5年(721年) 正月27日:賜絁10疋・糸10絇・布20端・鍬20口
脚注
[編集]- ^ 「渡来系氏族事典」『歴史読本』第51巻第3号、新人物往来社、2006年2月、197頁。「『新撰姓氏録』には「王仲文自り出づ」とある。王仲文は東楼と名乗る僧侶であったが、大宝元年に還俗し王に復名した。」
- ^ 「王氏。出自高麗国人従五位下王仲文(法名東楼)也」(『新撰姓氏録』「左京諸蕃」)
- ^ a b 전덕재 (2017年7月). “한국 고대사회 外來人의 존재양태와 사회적 역할” (PDF). 東洋學 第68輯 (檀國大學校 東洋學硏究院): p. 104. オリジナルの2022年4月23日時点におけるアーカイブ。
- ^ 伊藤英人『「高句麗地名」中の倭語と韓語』専修大学学会〈専修人文論集 105〉、2019年11月30日、376頁。
- ^ 21世紀研究会『カラー新版 人名の世界地図』文藝春秋〈文春新書〉、2021年11月18日、212頁。ISBN 4166613405。「現在、使われている中国式の姓が一般化したのは、中国から漢字が導入され、定着してきた七世紀以後と考えられている。『三国史記』や『三国遺事』では、高句麗・百済・新羅の始祖伝説にすでに中国式の姓が使われていたように記されているが、実際には神話上の話と解釈されている。高句麗の始祖・朱蒙は国名にちなんで「高朱蒙」と高氏を名乗ったり、百済では扶余族の始祖温祚は扶余氏という姓を名乗ったと伝えられている。新羅の始祖は、一説には、馬のいななきに導かれた先で見つかったヒョウタンのように大きい卵から生まれたという伝説から、ヒョウタン(パク)を意味する「朴」、あかあかと火が燃える様や光が明るく輝く様を営味する「赫」で朴赫居世となった。新羅では四代目の脱解王からは昔氏、一三代目の味鄒王からは金氏に受けつがれ、朴氏、昔氏、金氏となるそれぞれの始祖伝説をもっている。史書によると、三国時代は、始祖伝説に関係する者以外でいわゆる中国式の姓をもっている者はほとんどみられない。六世紀から七世紀に登場する高句麗の武将は「乙支文徳」、『日本書紀』に「伊梨柯須彌」の名で登場する高句麗の権力者は「淵蓋蘇文」、七世紀の百済の軍官は「鬼室福信」に「階伯」である。新羅の始祖の赫居世も別名は「弗矩内」ともいう。実際に、朝鮮半島で姓が生まれたのは、統一新羅時代になってからである。統一新羅の王族、貴族が中国・唐の文化を取り入 れるなかで、中国式に姓をもつようになっていったのだ。また、中国の姓をまねただけでなく、自分の住んでいる地名、周囲の山や川にちなんでつけられた名前もあったようだ。そして高麗時代になると、姓をもつことが一般化し、李朝時代には『経国大典』という戸籍台帳ができて、姓名制度が確立した。」
- ^ 文慶喆『韓国人の姓氏と多文化社会』東北文化学園大学総合政策学部〈総合政策論集: 東北文化学園大学総合政策学部紀要 19 (1)〉、2020年3月20日、117頁。「高麗、朝鮮時代を経て定着した中国式の漢字の姓氏が、多文化社会によって大きく変わろうとしている。…古代国家が成立する以前の単純な氏族社会においては、姓氏はなかったとされている。勿論、文献などによる記述の中で登場する表現は同族を表すものであり、今の様な姓氏とは異なると考えられる。原始社会においては、自然に母系社会になり、子供の出生は母方が明らかで、女から生まれるという「姓」の概念が生まれたと考えられる。しかし、人間社会は血縁関係から生まれ、血縁関係から発達したので、この血縁関係を中心とした氏族の観念が強く、他の氏族に対して自分達の名称の必要性を持つようになった。この名称が後に文字化して、「姓氏」の原型となったと考えられる。韓国においても同様で、三国時代から何らかの名称があったが、それは権力者を中心として使われていたと考えられる。高句麗王の「高氏」、百済王の「扶余氏」、新羅の「朴、昔、金氏」などがあるが、これはすべて漢字が齎してからの表記である。日本の『日本書紀』などの資料を見ても、朝鮮半島に7世紀以前には漢字の姓氏は見当たらない。この時姓氏を持つことは、集団の中で政治的、社会的特権であり、姓氏の獲得によって段々母系社会から父系社会に移行して行く。」
- ^ 文慶喆『韓国人の姓氏と多文化社会』東北文化学園大学総合政策学部〈総合政策論集: 東北文化学園大学総合政策学部紀要 19 (1)〉、2020年3月20日、118頁。「朝鮮半島では7世紀後半になる中国の唐との交流が活発になり、中央貴族や官僚を中心に漢字の姓氏が拡大して行く。…李重煥の『擇里志』には、高麗時代以降徐々に一般の人が姓氏を持つようになったと記している。」
- ^ 文慶喆『韓国人の姓氏と多文化社会』東北文化学園大学総合政策学部〈総合政策論集: 東北文化学園大学総合政策学部紀要 19 (1)〉、2020年3月20日、127-128頁。「韓国人の姓氏は、漢字の導入と共に今のような中国式の形が定着したと見られる。その中には韓国独自の姓氏もあるが、多くは中国の姓氏を借用したと考えられる。勿論、中には帰化によって中国伝来の姓氏も見られたり、日本由来の姓氏も見られた。歴史的には、特権階層だけが持っていたこの姓氏が、一般の人にまで広がるのは高麗時代の文宗(1047年)が実施した科挙の試験が大きく影響する。科挙試験には姓名を持つことが条件であり、試験を受けるために一般の人にまで広がるきっかけとなった。」
- ^ 『続日本紀 2』岩波書店〈新日本古典文学大系 13〉、1990年、84頁。
- ^ 『藤氏家伝』下
- ^ 『大日本古文書』24巻,552頁