玉虫文一
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人物情報 | |
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生誕 |
1898年10月18日 日本宮城県仙台市 |
死没 |
1982年7月26日 (83歳没) 日本長野県長野市 |
出身校 | 東京帝国大学 |
学問 | |
研究分野 | 物理・化学 |
研究機関 | 武蔵高等学校、東京帝国大学、東京女子大学 |
学位 | 理学博士(東京帝国大学) |
玉蟲 文一(たまむし ぶんいち、1898年10月18日 - 1982年7月26日)は、日本の物理化学者、東京大学名誉教授。
経歴
[編集]出生から終戦まで
[編集]1898年、宮城県仙台市生まれ。父は玉蟲家の養子になった人物で、しばしば朝鮮・中国方面へ出張していたが、文一が9歳の年に京城で急病を発して死去。そのため母と共に東京へ出て、1916年に府立一中を卒業し、第一高等学校に進んだ。東京帝国大学理学部に進み、理学部化学教室で片山正夫に師事した。1922年に東京帝国大学を卒業。
卒業後は、理化学研究所で恩師の片山正夫研究室の助手として界面化学を研究。1924年、武蔵高等学校教授に任命された[1]。1935年、東京帝国大学に学位論文を提出して理学博士号を取得[2]。1936年より根津化学研究所所長を兼任した。1941年、アメリカ科学振興会のフェローに推薦された。
戦後
[編集]1949年、旧制武蔵高等学校の廃止に伴って東京大学教養学部教授となった。1959年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は、東京女子大学教授として教鞭をとった。1969年に東京女子大学を退職。同年からは再び武蔵学園で教鞭をとり、あわせて根津科学研究所の所長に復帰した(翌1970年からは名誉所長)。1982年、北軽井沢にて死去[3]。
受賞・栄典
[編集]- 1952年:第一回化学教育賞を受賞。
- 1975年:ドイツ・コロイド学会よりウォルフガング-オストワルト賞を授与。
研究内容・業績
[編集]- コロイドおよび界面化学の研究、レオロジー、科学史の分野で研究を行った。
- 自身の研究と同時に、科学教育の点にも力を注いだ。
家族・親族
[編集]著作
[編集]著書
[編集]共編著
[編集]- 『化学実験』白井俊明共著 山根書店 1952
- 『化学』松浦二郎共編 青林書院(大学教養演習講座) 1960
- 『化学 構造とエネルギー』 岩波書店、1971
- 『岩波理化学辞典 第3版』富山小太郎・小谷正雄・安藤鋭郎・高橋秀俊・久保亮五・長倉三郎・井上敏共編 岩波書店 1971
- 『原典による自然科学の歩み』木村陽二郎,渡辺正雄共著 講談社 (原典による学術史) 1974
- 『科学史入門 七人の先駆者を中心として』 培風館 1979
翻訳
[編集]- アール・ジェ・マックグラース『現代市民の育成と大学 一般教育はいかにあるべきか』丸善 1954
- アイザック・アシモフ『化学の歴史 プロメテから原子力まで』竹内敬人共訳 河出書房(現代の科学 1967 のちちくま学芸文庫)
- ジャン・ペラン『原子』岩波文庫 1978
玉蟲文一に関する参考資料
[編集]- 畑野勇「根津化学研究所初代所長・玉蟲文一の足跡と学問観・教育観」[5]
- 伊能敬「玉蟲文一先生のご逝去を悼む」年譜
- 『日本人名大辞典、駒場の50年』
脚注
[編集]- ^ 玉蟲の教授就任は、当時武蔵高校の顧問であった山川健次郎が、片山教授に化学教員の適任者の推薦を依頼し、片山が玉蟲を推薦したことによるという。(『科学・教育・随想』岩波書店、1970年)
- ^ NAID 500000038050
- ^ 伊能敬「玉蟲文一先生のご逝去を悼む」
- ^ 星亮一『山川健次郎伝』あとがき
- ^ 武蔵学園百年史