コンテンツにスキップ

玉縄陣屋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
logo
logo
玉縄陣屋
神奈川県
別名 相模陣
城郭構造 陣屋
天守構造 なし
築城主 松平正綱
築城年 1619年元和5年)以降[1]
主な城主 松平正綱・松平正信松平正久
廃城年 1703年元禄16年)
遺構 道路・井戸・苑池
指定文化財 未指定
埋蔵文化財
包蔵地番号
鎌倉市No.63(玉縄城と同じ)[2][3]
位置 北緯35度21分03.5秒 東経139度30分52.4秒 / 北緯35.350972度 東経139.514556度 / 35.350972; 139.514556 (玉縄陣屋)座標: 北緯35度21分03.5秒 東経139度30分52.4秒 / 北緯35.350972度 東経139.514556度 / 35.350972; 139.514556 (玉縄陣屋)
座標は鎌倉市植木の陣屋坂付近
地図
玉縄陣屋の位置(神奈川県内)
玉縄陣屋
玉縄陣屋
テンプレートを表示

玉縄陣屋(たまなわじんや)は、神奈川県鎌倉市植木相模陣(旧相模国鎌倉郡植木村)にあった陣屋江戸時代前半期に当地に存在した玉縄藩藩庁で、玉縄城山城)の南山麓にあったと推定されている。

概要

[編集]

鎌倉市植木・城廻・関谷玉縄にかけての丘陵地帯に所在する玉縄城は、1512年永正9年)の伊勢盛時(北条早雲)による築城以来、後北条氏上杉氏武田氏里見氏との幾度もの抗争の場となり、後北条の中核家臣団(玉縄衆)の東相模最大の拠点となってきたが[4][1]1590年天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐徳川家康の軍に包囲され、山中城防衛に失敗して自決覚悟で玉縄城に籠った城主・北条氏勝が、大応寺(現・龍寶寺)住職らの説得を受けて無血開城し、後北条氏の城郭としての役割を終えた[4]。その後、家康は本多正信水野忠守に玉縄城を預けたが、1615年慶長20年)の一国一城令を受けて1619年元和5年)に廃城となった[1]

その後、長沢松平家松平正綱が22000石を受けて玉縄に入封されて玉縄藩を立藩し[4]、正綱は玉縄城山麓に玉縄陣屋を建てた。しかし3代藩主松平正久1703年元禄16年)に上総大多喜藩へ移封となったため、廃藩となった。なお1792年寛政4年)に松平定信が海岸防備のために玉縄城の再興を計画したが、実現しなかった[1]

発掘調査

[編集]

玉縄陣屋は、玉縄城本曲輪の南側に開く谷戸に位置していたと推定されており、谷戸内の坂道は「陣屋坂」とよばれている。1987年(昭和62年)の陣屋坂東側での発掘調査では、玉縄城に関わる家臣団の屋敷跡が検出されたが、1989年(平成元年)から1990年(平成2年)にかけて陣屋坂西側(植木字相模陣370番地)で行われた発掘調査では、16世紀-18世紀代の道路や建物・井戸木樋・玉砂利敷きの苑池(庭園)等の遺構が検出され、同時期の陶器漆器木製品などの遺物も出土した。これらは年代からみて玉縄陣屋に関わる遺構・遺物と目されている[5][1]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e 鎌倉市教育委員会 2013 pp.1-7
  2. ^ 「鎌倉市周知の埋蔵文化財包蔵地一覧」鎌倉市公式HP
  3. ^ 「鎌倉市遺跡地図について」鎌倉市公式HP
  4. ^ a b c 平井ほか 1980 pp.336-339
  5. ^ 鎌倉市教育委員会 1996 p.14

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]