狩野岑信
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狩野 岑信(かのう みねのぶ、寛文2年(1662年) - 宝永5年12月3日(1709年1月13日))は、日本の江戸時代前期から中期にかけて活躍した絵師。江戸幕府に仕えた御用絵師で、狩野派(江戸狩野)の一派・浜町狩野家の祖。名は吉之助、通称は主税、号は随川、覚柳斎など。木挽町狩野家2代目・狩野常信の次男で母は狩野安信の娘。兄に周信(木挽町狩野家3代目)、弟に甫信(浜町狩野家2代目)がいる。
略伝
[編集]元禄元年(1698年)、後に6代将軍となる徳川家宣に召し出され、同3年(1700年)15人扶持が与えられる。宝暦元年(1704年)家宣の西の丸入場に従い、宝暦4年(1707年)11月29日松本性を賜って松本友盛と名を改めた。この時、家宣自ら松平姓を与えようとしたが、岑信が憚って辞退したため松本姓を与えたという。更に翌年家宣の将軍宣下に伴い奥医師並、200俵7人扶持に加増、別家を許されて浜町狩野家を興し、更に狩野宗家の中橋狩野家を凌いで狩野総上席を与えられた。なお、御用絵師が奥医師並の職格を与えられたのは、住吉具慶と岑信のみである。しかし、家宣の将軍就任を見ずに宝永5年(1708年)12月3日、父常信に先立って亡くなった。享年47。戒名は覚樹院岑信日量、墓所は池上本門寺。家宣の御用を多く務めたと推測されるが、現在確認されている作品数は20点に満たない。弟子に伊予松山藩御用絵師の豊田随園など。
作品
[編集]作品名 | 技法 | 形状・員数 | 寸法(縦x横cm) | 所有者 | 年代 | 落款 | 備考 |
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六義園の図 | 3巻のうち1巻 | 公益財団法人郡山城史跡・柳沢文庫保存会 | 1704年(宝永元年)頃 | 款記「岑信」 「狩野」白文方印 |
常信・周信との合作で、常信が上巻、周信が中巻、岑信が下巻を担当。柳沢吉保が選んだ六義園内の見所「六義園八十八境」を描く。初期の六義園の様子がわかり、大名庭園を描いた早期の作例としても貴重[1]。 | ||
女房三十六歌仙画帖 | 絹本著色・紙本墨書 | 1帖 | 赤穂市教育委員会(美術工芸館管理) | 1704-05年(宝永元年-2年) | 各図に款記「岑信筆」 「狩野」白文方印 |
赤穂市指定文化財。縦20.0x横24.7cmの小品だが、絹本に濃彩で描き、和歌の色紙や台紙は青金と赤金の砂子を散らして金雲を配した豪華な画帖。目録が付属しており和歌の書写名が全員わかるが、鷹司兼熙、近衛基熙・家熙など当時を代表する公卿ばかりで、本作の特別性がうかがえる。制作年は公卿たちが署名した当時の官職名から推測。赤穂にある東浜塩田最大の地主だった田淵家に伝来したが、これ以前の伝来経路は不明[2]。 | |
七福神図巻 | 絹本著色 | 1巻 | 33.8x814.8 | 板橋区立美術館 | 款記「岑信筆」 「狩野」朱文方印 |
常信の作品にも同趣向の「七福神図」(山種美術館蔵)がある。 | |
李白観瀑図 | 東京国立博物館 | ||||||
四季耕作図屏風 | 紙本著色 | 六曲一双 | 156.0x348.0(各) | 石川県七尾美術館[3] | |||
琴棋書画図 | 紙本著色 | 1幅 | 81.3x141.8 | 鳥取県立博物館 | |||
福禄寿図 | 絹本著色 | 3幅対 | 113.6x43.4(各) | 鳥取県立博物館 | 款記「岑信筆」 | ||
紫式部図 | 1幅 | 石山寺 | |||||
山里の春図 | 1幅 | 徳川記念財団 | 徳川家宣賛 | ||||
「小倉山庄色紙和歌(小倉百人一首)」見返し絵 | 絹本著色 | 2冊のうち4図 | 個人(因州池田侯爵家旧蔵) | 款記「岑信筆」 「岑」朱文方印 |
大正8年(1919年)6月の「因州池田侯爵家御蔵品入札目録」に、狩野探幽画、松花堂昭乗書として紹介された作品で、5190円で落札された。岑信は、2冊の表裏見返しに春夏秋冬の景物画(四季絵)を、着色大和絵風に描いている。メインとなる百人一首各図には探幽が用いた「藤」朱文方印が押されているが、現存する探幽使用印(三井記念美術館蔵)と比べると、印影が微妙に合わず偽印である。画風も江戸狩野派風ではあるが、顔の描き方などが探幽と異なり、探幽作品とは認められない。しかし、作品自体は真面目で品格があり、悪意ある贋作とは言い難い。これは岑信が偽作を見抜けず絵を付け足したという可能性もあるが、本作品のように探幽の真面目な偽作が少なからず現存し狩野派内で探幽の偽作が作られたとみられる事から、依頼者からどうしても探幽画が欲しいという要望があったものの市場に探幽画が無かったため、岑信自身が内密に代作したものとも考えられる[4]。 | ||
旧正法院家住宅(吉城園)障壁画 | 紙本金地著色・紙本金地墨画 | 襖12面 | 奈良県立美術館 | 款記「岑信筆」 朱文方印 |
奈良県指定文化財 | ||
菊花図 | 紙本金地著色 | 六曲一双 | 大徳寺 | 款記「岑信筆」[5] | |||
松図 | 絹本著色 | 1幅 | 51.8x78.2 | 個人 | 款記「岑信筆」/「狩野」朱文方印 | 宮城県岩沼市にある武隈松を描いた作か[6]。 |
脚注
[編集]- ^ 『没後三〇〇年記念 柳澤吉保とその時代ー柳沢文庫伝来の品々を中心にー』 川越市立博物館、2014年10月18日、pp.64-65、117-118。
- ^ 木村(2011)p.41-42。
- ^ 四季耕作図屏風(右隻) 狩野岑信 « 石川県七尾美術館
- ^ 安村敏信 「因州池田侯爵家旧蔵「百人一首画帖」について」(『因州池田侯爵家旧蔵「小倉山庄色紙和歌」(小倉百人一首)』 株式会社宝庫堂美術、2014年3月22日、pp.8-13)。なお、書も松花堂昭乗ではなく、それより一世代後の松花堂流の書き手だと考えられる。
- ^ 田中方南 『秘宝=第十一巻 大徳寺』 講談社、1968年、図105,p.339。
- ^ 仙台市博物館編集・発行 『特別展 樹木礼賛 日本絵画に描かれた木と花の美』 2014年9月26日、第48図。
参考資料
[編集]- 安村敏信『もっと知りたい狩野派 探幽と江戸狩野派』東京美術、2006年、ISBN 978-4-8087-0815-3
- 鎌田純子「狩野岑信」(竹内誠ほか編 『徳川幕臣人名辞典』 東京堂出版、2010年、pp.215-216)ISBN 978-4-490-10784-5
- 木村重圭 「赤穂市の指定文化財ー絵画ー」赤穂市立歴史博物館編集・発行 『特別展図録 赤穂の指定文化財』 2011年11月19日