物部広泉
表示
時代 | 平安時代初期 - 前期 |
---|---|
生誕 | 延暦4年(785年) |
死没 | 貞観2年10月3日(860年10月20日) |
官位 | 正五位下・内薬正 |
主君 | 淳和天皇→仁明天皇→文徳天皇→清和天皇 |
氏族 | 物部首→朝臣 |
物部 広泉(もののべ の ひろいずみ)は、平安時代初期から前期にかけての貴族・医官。姓は首のち朝臣。官位は正五位下・内薬正。
経歴
[編集]伊予国風早郡(現在の愛媛県北条市)の出身で、のち平安京の左京に住んだ。若い頃から医術を学び多くの医書に通じた[1]。
天長4年(827年)医博士兼典薬允に任ぜられ、のち淳和天皇の侍医に遷任し伊予掾・讃岐掾を兼ねた。仁明朝の承和6年(839年)外従五位下に叙せられる。承和12年(845年)内薬正を兼任すると、卒去までの約15年に亘って内薬正兼侍医を務めた。承和14年(847年)内位の従五位下に昇叙される。
文徳朝では、斉衡元年(854年)に従五位上に叙せられると共に、同年首姓から朝臣姓へ改姓している。清和朝の貞観元年(859年)正五位下に昇叙されるが、翌貞観2年(860年)10月3日卒去。享年76。最終官位は正五位下行内薬正兼侍医三河権守。
人物
[編集]薬石(薬や治療法)の道にかけては当時比肩する者がなかった。また、老いて髭や眉は真っ白になっても、皮膚に光沢があり身体はなお壮健であったという[1]。養生書『摂養要決』全20巻を著し、世の中に広まったとされるが[1]、現在は散逸して伝わらない。『金蘭方』の編纂者の一人ともされるが、これは偽選書に基づく誤り。
官歴
[編集]『六国史』による。
- 天長4年(827年) 日付不詳:医博士兼典薬允
- 時期不詳:侍医。兼伊予掾。兼讃岐掾。
- 承和6年(839年) 正月7日:外従五位下
- 承和12年(845年) 12月5日:内薬正、侍医如故
- 承和14年(847年) 正月7日:従五位下
- 嘉祥4年(851年) 正月11日:兼伊予権掾。4月8日:次侍従
- 仁寿4年(854年) 正月7日:従五位上。10月15日:首姓から朝臣姓に改姓
- 斉衡4年(857年) 正月14日:兼肥前介
- 天安2年(858年) 2月5日:兼三河権介
- 貞観元年(859年) 11月19日:正五位下
- 貞観2年(860年) 2月14日:兼三河権守。10月3日:卒去(正五位下行内薬正兼侍医三河権守)