片倉兼太郎 (3代目)
片倉 兼󠄁太郞 | |
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生年月日 | 1884年9月20日 |
出生地 | 長野県諏訪郡川岸村 |
没年月日 | 1947年1月15日(62歳没) |
出身校 | 諏訪実科中学校中途退学 |
前職 | 片倉製糸紡績会長 |
称号 | 勲四等 |
親族 |
今井五介(伯父) 今井五六(従兄) |
選挙区 | 貴族院多額納税者議員 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1939年9月29日[2] - 1947年1月15日 |
三代目 片倉 兼太郎(さんだいめ かたくら かねたろう、旧字体:片倉 兼󠄁太郞、1884年(明治17年)9月20日 - 1947年(昭和22年)1月15日[3])は、日本の実業家、政治家[4]。勲等は勲四等。出生名は片倉 脩一(かたくら しゅういち)[4]。
富国火災海上保険株式会社社長(第2代)、片倉製糸紡績株式会社会長、諏訪電気社長、株式会社美篶商会社長(初代)、貴族院議員などを歴任した。
概要
[編集]長野県出身の実業家、資本家であり、貴族院議員を務めた政治家でもある[4]。1934年、三代目片倉兼太郎を襲名しており、当初の名は脩一であった[4]。片倉製糸紡績(現在の片倉工業)会長、八十二銀行頭取、日本蚕種製造社長、諏訪電気社長、美篶商会社長を歴任した[4]。富国火災海上保険の社長も務めた。
来歴
[編集]生い立ち
[編集]1884年(明治17年)9月20日、長野県に片倉兼太郎(二代目)の長男「脩一」として生まれる[4]。父の実兄にして養父の片倉兼太郎(初代)は、伯父にして養祖父に当たる[4][5]。旧制・諏訪実科中学校(現在の長野県諏訪清陵高等学校)を中途退学し、片倉組に加わる[4]。
1917年(大正6年)2月13日、初代が死去する[5]。
実業家として
[編集]1920年(大正9年)3月23日、片倉組が片倉製糸紡績株式会社として法人化されるとともに、取締役に就任する[4]。1925年、片倉財閥の傘下に富国火災海上保険が加わったことから[6]、同年1月30日より同社の社長を務めた[6]。
1934年(昭和9年)1月8日の二代目の逝去にともない、同年、三代目片倉兼太郎を襲名する[4]。翌1935年(昭和10年)、片倉製糸紡績会長に就任する[4](社長は初代の実弟今井五介)。1936年(昭和11年)5月16日、片倉財閥が経営する写真機材商社美篶商会(1922年創業)の法人化に際し、初代社長に就任、翌1937年(昭和12年)から日本初の豆カメラ「ミゼット」を発売し、豆カメラブームを起こす[7]。
1939年(昭和14年)、第8回貴族院多額納税者議員選挙にて貴族院議員に選出され、同年9月29日に就任し[8]同成会に所属[3]。同年9月、株式会社富岡製糸所(旧官営富岡製糸場)を片倉製糸紡績に合併する。1943年(昭和18年)11月、片倉製糸紡績は、片倉工業株式会社に改称する。
1947年(昭和22年)片倉財閥は解体指定を受け、三代目兼太郎は公職追放となり、その10日後の同年1月15日、死去する[4]。満62歳歿。貴族院の多額納税者議員として、第92回帝国議会の会期中、在籍死亡であった[9]。勲四等。
二女・くにの夫は八十二銀行頭取の黒沢三郎[10]
脚注
[編集]- ^ 片倉製糸紡績考査課編輯『片倉製糸紡績株式会社創立二十年紀念写真帖』片倉製糸紡績考査課、1941年3月12日。
- ^ 『官報』第3823号、昭和14年9月30日。
- ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』194頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l 片倉兼太郎 (3代)、デジタル版 日本人名大辞典+Plus、コトバンク、2012年3月15日閲覧。
- ^ a b 片倉兼太郎、朝日日本歴史人物事典、コトバンク、2012年3月15日閲覧。
- ^ a b 千代田火災海上保険100周年社史編纂委員会編『千代田火災百年史』千代田火災海上保険、1998年。
- ^ 会社沿革 (インターネットアーカイブ、2004年6月11日付)、美スズ産業、2012年3月15日閲覧。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、49頁。
- ^ 『官報』第6006号、昭和22年1月23日。
- ^ 『財界家系譜大観』第8版,P314,現代名士家系譜刊行会,1988.11
参考文献
[編集]- 『片倉製糸紡績株式会社20年誌』片倉製糸紡績、1941年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
関連項目
[編集]外部リンク
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先代 寺田省帰 |
富国火災海上保険社長 第2代:1925年 - 1936年 |
次代 山本宗三郎 |