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熊野本遺跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
熊野本 遺跡の位置(滋賀県内)
熊野本 遺跡
熊野本
遺跡
位置

熊野本遺跡(くまのもといせき)は、滋賀県高島市新旭町熊野本にある遺跡。饗庭野台地(あいばのだいち)にある遺跡で、これまでの発掘調査で多数の竪穴建物掘立柱建物・墳丘墓などが見つかっている。竪穴建物の分布が東西300メートル×南北200メートル、面積6ヘクタールの大規模なムラであったと思われる。今から約2000年前に最も発達し、墳丘墓が築かれる約1800年前に衰退したと考えられる[1]

概要

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滋賀県高島市新旭町に所在する熊野本遺跡群は、饗庭野台地を経由して若狭~日本海~大陸へと抜けるルート上に位置する。この地域が古代より重要な地域と考えられていたことは、遺跡の分布から窺うことができる。熊野本遺跡は発掘調査によって、弥生時代中期後半から後期にかけての竪穴建物が約40棟確認されている。これらの分布は東西約300メートル、南北約200メートルで、面積約6ヘクタールの規模を有する集落であることが判明している。また、検出した竪穴建物には直径約12メートルに及ぶ円形建物を含み、竪穴建物群が何度も建て替えられたことが窺える。

出土品

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これらの竪穴建物や遺物包含層からは鉄製品や鉄素材が多数出土している。鉄製品とともに鉄素材が多数出土していることから加工・製作していた可能性が指摘されている。また、緑色凝灰岩の剥片も出土しており、玉造りが行われていたものと考えられる。これらは弥生時代中期後半にかけて日本海岸地域を経由して流入したものと推測される。遺跡の南西部からは、東西約12メートル・南北約15メートルの規模を測る、弥生時代後期末の墳丘墓が検出された。木棺跡からは水銀朱とガラス小玉741点が出土した。墳丘裾では貼石と考えられる人頭大の石や、水銀朱を加工したと考えられるL字状石杵が出土している。墓の特徴や出土遺物から日本海岸地域との関係が窺える。

熊野本遺跡群(弥生時代)と熊野本古墳群(古墳時代)の関連性

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熊野本遺跡は、弥生時代中期後半から後期にかけて日本海岸地域と近畿及び東海を結ぶ位置に営まれ、日本列島内に鉄器文化が急速に普及する時期であることから、湖西地域の拠点的な集落と考えられる。また、遺跡の廃絶後には集落内に墳丘墓が築造されることから、周辺には墳丘墓による墓域が形成されていた可能性が推察される。

熊野本遺跡が広がる台地状の丘陵部と谷を隔てた北側に存在する尾根部には、熊野本古墳群が分布する。熊野本遺跡と同様に昭和40年代(1965年~74年)の滋賀県教育委員会の分布調査により、円墳22基、方墳12基、前方後円墳1基、前方後方墳1基で構成される古墳群であることが判明した。古墳群は5世紀中頃から6世紀後半にかけて築造されたものと推定されていたが、前方後方墳の6号墳や前方後円墳である12号墳は築造時期が古墳時代前期(3世紀)に遡る可能性も考えられる。

また、大型方墳である18号墳と大型円墳である19号墳は古墳時代中期の築造の可能性が考えられる。

このことから、古墳群内で古墳時代前期から中期まで湖西地域の首長墓が継続して営まれていたものと推察される。また、熊野本遺跡に弥生時代後期の墳丘墓も存在するので、この時期から首長墓が連続して築造されていたことも推察でき、湖西地域北部における弥生時代から古墳時代の首長墓系譜を考える上で重要な古墳群とされている[2]

脚注

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  1. ^ 史跡説明板
  2. ^ 『滋賀県高島郡新旭町熊野本古墳群Ⅰ 分布測量・6号墳・12号墳 範囲確認調查報告書』2003.03 新旭教育委員会

参考文献

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  • 史跡説明板
  • 滋賀県高島郡新旭町『熊野本古墳群Ⅰ分布測量・6号墳・12号墳 範囲確認調查報告書』2003.03 新旭教育委員会

関連項目

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  • 鴨稲荷山古墳 - 6世紀前半の首長墓(前方後円墳)。畿内特有の家形石棺、朝鮮半島の影響を強く受けた豪華副葬品を有する。
  • 平ヶ崎王塚古墳 - 田中王塚古墳と墳丘規模・墳形・築造方法等に共通性が認められる。
  • 田中王塚古墳 (高島市安曇川町田中) - 安曇陵墓参考地。5世紀後半の首長墓で、彦主人王の墓と推定される。
  • 北牧野製鉄遺跡 - 古代の製鉄遺跡群。北牧野古墳群との関連性が指摘される。
  • 北牧野古墳群 - 高島市最大の群集墳。製鉄遺跡との関連性が指摘される。
  • 上御殿遺跡 - 縄文時代から室町時代の遺跡。日本国内初の双環柄頭短剣(中国内モンゴルに分布するオルドス式銅剣に似ている)の鋳型が出土した。
  • 東谷遺跡 - 古墳時代後期から製鉄が行われていた可能性がある遺跡。
  • 下五反田遺跡 - 3世紀から11世紀にかけての遺跡だが、中心を成すのは5世紀中葉の遺跡である。出土品から渡来人との交流が見られる。
  • 南市東遺跡 - 5世紀後半頃の遺跡。カマドや韓式土器など、渡来人と交流があったことをうかがわせる遺跡である。
  • 日置前遺跡 - 縄文時代から鎌倉時代までの複合遺跡。高島郡の郡衙跡と思われる遺跡が見つかっている。

外部リンク

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