熊谷景貞
熊谷 景貞(くまがい かげさだ、建久5年(1194年)-承久3年(1221年)?)は、鎌倉時代の武士。通説では熊谷忠直の子とされるが、近年の研究では熊谷直家の嫡男で忠直の養子もしくはその名跡を継いだ存在とする説が出されている。景定とも記される。
脚注
[編集]現在よく知られている熊谷氏の系譜では、景貞は忠直の子として記されている。忠直は熊谷直実の兄である直正の子で、近江国塩津荘の地頭を務め、後に同国菅浦の地頭職を得た近江熊谷氏(塩津熊谷氏)の当主にあたる。熊谷氏と菅浦の住民の関係を巡っては、『菅浦文書』の中でも度々登場することで知られている。
しかし、熊谷氏に伝えられた「熊谷系図」では景定(景貞)に関する注記として、「実は直家の嫡男に生まれたが忠直の養子となり、承久の乱の際に京方(後鳥羽上皇側)について28歳で討死したため、弟の直継(後の熊谷直国)が継承した」と記されている。この直国(直継)は承久の乱で鎌倉幕府側について討死し、その功績によって遺児である熊谷直時ら兄弟に安芸国三入荘が与えられて後世の安芸熊谷氏の祖となったとされる人物である。この注記を信じれば、景貞は忠直の実子ではないことになる。一方、同じ系図の直国の項目には討ち取られて瀬田に晒された直国の首を景貞が懇願して引取り、熊谷郷に持ち帰ったと記している。つまり、こちらの記事では、景貞は戦死せずに熊谷氏の本拠地である武蔵国熊谷郷に戻ることが出来たことになる[1]。
近年、武蔵国熊谷郷の伝領経緯から「熊谷直実ー直家ー直国」という系図が疑問視[注釈 1]され、直国は直実が直家の同意を得て熊谷郷を譲った[4]"四郎家真(さねいゑ)"の子ではないかとする説[5][6]が有力視され、その後、当主の名乗りから近江熊谷氏を直家の子孫とする説が唱えられるようになった。その過程で、「熊谷系図」における景貞の位置付けが注目され、承久の乱後、幕府方について戦死した直国とその遺児が新しい嫡流と位置づけられて安芸国に所領を与えられ、京方についた景貞は廃嫡となり、後に許されて忠直の名跡を継いで近江熊谷氏の祖となったとする新説が出されている[注釈 2][7]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 熊谷直国の曾孫にあたる安芸熊谷氏の熊谷直満は正安2年(1300年)に同じ熊谷氏出身の女性と推測される明法(発智二郎後家)と熊谷郷の年貢納付を巡って訴訟となった際、明法側から「熊谷直実の家の惣領は二郎左衛門尉直忠であり納付先は直忠ではないか」と反論された。鎌倉幕府の裁決は熊谷郷における熊谷氏一族の年貢納付の実態から直満が納付先とされたものの、惣領を巡る明法側の主張は否定されずに裁決に記載された[2]。熊谷二郎左衛門尉直忠はこの訴訟の2年前に「菅浦惣追捕使」と称して近江国菅浦の供御人と対立して六波羅探題で訴訟となった[3]近江国塩津荘の熊谷七郎二郎直忠と同一人物とみられる。そもそもの話として「熊谷直実ー直家ー直国ー直時ー直高―直満」とする熊谷氏の系図が正しいとすれば、直実が家実に譲った筈の熊谷郷を直家の玄孫・直満が領有していることが説明できなくなってしまう。
- ^ 高橋修は承久の乱をきっかけに熊谷氏の嫡流から外された直家―景貞の子孫である近江熊谷氏がその後復権して惣領としての地位を回復したと考えれば、直満の時代の訴訟において明法が景貞の子孫である直忠が熊谷氏の惣領であると述べたことが説明できるとしている。
出典
[編集]- ^ 高橋、2019年、P16-17・39.
- ^ 『熊谷家文書』26号・「正安二年閏七月廿七日関東下知状」
- ^ 『菅浦文書』所収・永仁6年6月付「近江菅浦惣追捕使代乗眼申状案」
- ^ 『熊谷家文書』1号・「建久弐年参月一日僧蓮生熊谷直実譲状」
- ^ 錦織勤「安芸熊谷氏に関する基礎的研究」(初出:『日本歴史』437号(1984年)/所収:高橋修 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第二八巻 熊谷直実』(戒光祥出版、2019年)ISBN 978-4-86403-328-2)2019年、P247-252.
- ^ 柴﨑啓太「鎌倉御家人熊谷氏の系譜と仮名」(初出:『中央史学』30号(2007年)/所収:高橋修 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第二八巻 熊谷直実』(戒光祥出版、2019年)ISBN 978-4-86403-328-2)2019年、P279-286.
- ^ 高橋、2019年、P17.
参考文献
[編集]- 高橋修「総論 熊谷直実研究の到達点と新たな課題」 高橋修 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第二八巻 熊谷直実』(戒光祥出版、2019年)ISBN 978-4-86403-328-2