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照護寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 照護寺
所在地 福井県福井市松本4-7-3
位置 北緯36度04分21秒 東経136度13分09秒 / 北緯36.07250度 東経136.21917度 / 36.07250; 136.21917
山号 桂島山
宗派 浄土真宗本願寺派
寺格 別格寺
本尊 阿弥陀如来
創建年 不詳
開基 良観
別称 桂島照護寺、森本照護寺 (旧称:六角堂)
照護寺の位置(福井市中心部内)
照護寺
照護寺 (福井市中心部)
照護寺の位置(福井市広域内)
照護寺
照護寺 (福井市広域)
照護寺の位置(福井県内)
照護寺
照護寺 (福井県)
照護寺の位置(日本内)
照護寺
照護寺 (日本)
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照護寺(しょうごじ)は、福井県福井市松本にある浄土真宗寺院。浄土真宗本願寺派一家衆院家・別格寺だった。旧称は照桂坊。通称は桂島照護寺、森本照護寺。山号は桂島山。墓地は足羽山西墓地第3号墓に有する。

歴史

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足羽山西墓地(照護寺)

創建年は不明だが、1363年貞治2年)に天台宗から浄土真宗に改宗しているため14世紀には存在していた[1]。元々は現在の福井市稲津町(桂島:足羽川の右岸)に位置しており[2][3]斯波氏の家臣、甲斐氏の一族良観が同家の菩提寺として開基したとされる[4]。良観が還俗する際、西本願寺五代の法主綽如の孫、石田西光寺(鯖江市)の永存の長男蓮真が住持となった。

良観和讃

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大谷大学図書館所蔵の「良観和讃」は、1407年應永14年)に六角堂照護寺の門弟藤田之良観が著した6篇の和讃集である。親鸞奉讃(上・下巻)、法然上人奉讃(上・下巻)、上宮太子奉讃(上・下巻)からなる。

この内、上宮太子奉讃(上巻)は法隆寺に伝わる叡尊という太子和讃で、下巻は高野山に伝わる聖徳太子和讃である[9]。親鸞奉讃(上巻)には、親鸞の幼名を「十八公若(やそきみわか)」と記し幼名が史上に現れた最初の文献であるとされる[10]

歴代住職

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  • 初代 良観(?-?):良空。室は興行寺開山周覚娘の良宗。
  • 2代 蓮真(1443-1511):玄永。砂子坂道場(城端別院善徳寺)を創建。
  • 3代 実順(?-1534):玄昭。蓮真の子。
  • 4代 証祐(1499-1557):玄尋。祐正。実順の子。
  • 5代 顕秀(?-1597):玄流。越前国北ノ庄領主の堀秀政より所領を賜り現在地へと移転する[11]
  • 6代 准周(?-1654):祐明。
  • 7代 准専(?-1655):昭周。
  • 8代 准良(?-1660):明厳。
  • 9代 良祐(?-1672):円純。
  • 10代 寂祐(?-1720):常宣。
  • 11代 寂慧(?-1735):
  • 12代 住勝(?-1762):
  • 13代 法秀(?-1788):
  • 14代 法巍(?-1835):
  • 15代 本乗(?-1869):
  • 16代 広延(1824-1884):
  • 17代 広洗(1856-1937):
  • 18代 武田淳心(?-1951):
  • 19代 武田照淳(?-2010):
  • 20代 武田照寧():

所在地

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  • 福井県福井市松本4-7-3

アクセス

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脚注

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  1. ^ 『稿本福井市史 下巻』、福井市役所 編、1973年、429頁
  2. ^ 『足羽町史』、足羽町史編纂委員会 編、1976年、829-830頁
  3. ^ 『真宗反故裏書之研究』、宮崎清 著、1987年、333-336頁
  4. ^ a b 『福井県大野郡阪谷五箇村誌』、福井県大野郡阪谷五箇両村組合 編、1929年、第一付録7頁
  5. ^ 『坂井町誌』、坂井町誌編纂委員会 [編]、1973年、492-496頁
  6. ^ 『北国の一向宗一揆集』、小田吉之丈 著、1931年、211頁
  7. ^ 『越中に移していた蓮如上人と一向一揆並富樫氏に関する展観目録』、石川県図書館協会 編、1934年、31頁
  8. ^ 『福井市史 通史編 1 (古代・中世)』、福井市 編、1997年、855頁
  9. ^ 『聖徳太子論集』、聖徳太子研究会 編、1971年、395-396頁
  10. ^ 『総説親鸞伝絵』、日下無倫 著、1958年、109頁
  11. ^ 『越前・若狭一向一揆関係資料集成』、越前・若狭一向一揆関係文書資料調査団 編、1980年、527頁

外部リンク

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