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焼津港の徴用船

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

徴用船(ちょうようせん)とは、戦時において軍部から徴用される民間の船舶。商船や漁船がその対象となる。本稿では昭和期戦時下の静岡県焼津港を中心とした徴用船について述べる。

漁船の徴用目的

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当初は、大型船からの荷役や兵士たちの食料運搬など雑用目的に徴用されたが、戦況が厳しくなるにつれて軍事作戦にも加わっていった。

概略

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全国

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昭和12年(1937年)7月の日中戦争から、昭和20年(1945年)8月の太平洋戦争終結までの8年間、全国での民間船舶の戦争被害は

  • 商船被害 約2千5百隻 (約800万トン)、戦没者 約3万人
  • 漁船・機帆船被害 約4千隻、戦没者 約3万人

といわれているが、詳細についてまとまった記録は見つかっていない。

静岡県

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日中戦争開始に伴い、1937年10月に県下にも、12トン内外、全長15メートル、深さ1.5メートル前後の船舶、30隻の徴用船の割当てが、あったとされる。

焼津港

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焼津港からも1937年7月から、海軍や陸軍、農林省からの徴用が始まる。戦況が厳しくなる1941年ごろからは、ほとんどの遠洋漁船が徴用され、焼津の漁業は大きな打撃を受けた。

焼津漁船の南方進出と徴用

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焼津港の漁船の徴用は、焼津漁業組合(1903年に発足)の発展と深い関係をもつ。

  • 1909年 焼津漁船の動力化が始まった。
  • 1924年 焼津港で初の鋼船 第三川岸丸が進水。
  • 1925年 原耕が建造した排水量100トン級の大型木造漁船、千代丸と八阪丸が進水
  • 1925年9月 焼津港に全国で初めて漁業無線施設である枕崎漁業無線局開局(現在の鹿児島県無線漁業協同組合)が認可され、遠洋漁業が急速に拡大した。
  • 1927年 千代丸が鵬程一万里、一航海一万円を成し遂げた影響で急速に100トン級漁船の建造が増加する。
  • 1931年 焼津の所属船による初の南方進出。海隼丸(50トン)が出航。
  • 1939年 
    • 夏 サイパン・パラオ・トラック方面への進出が実現
    • 冬 カツオからマグロ漁に進出。パラオでアメリカ向けの鮪油詰め缶詰の輸出を開始。
  • 1940年 戦時統制に協力する形で、南方漁場の開拓を進める一方、併せて戦時徴用船として軍とともに展開した。
  • 1941年
    • 大型漁船の徴用により、焼津の漁業は壊滅的な打撃を受けた。この時点で、焼津港の徴用船は85隻、うち1940年以降の徴用船で無事に帰還したのは僅か10隻余りだったという。
    • 焼津鮮魚介出荷統制組合による完全な配給統制出荷が始まる。
  • 1942年 焼津港の漁船の8割が徴用され、尚且つその必要量の2割しか燃料油が支給されなかった。
  • 1943年 こうした戦時下で、焼津の各組合、企業は、軍の展開と共に、積極的に南方海域の開発を続けた。 
    • 2月 第一次南方開発派遣団7隻が焼津港を出港。
    • 8月 第二次南方開発派遣団4隻が焼津港を出港。
  • 1944年 
    • 2月 南方に展開していた軍隊の玉砕が始まる。クサイの南興水産各基地は壊滅的な状態になる。
    • 4月 第三次南方開発派遣団が焼津港を出港。
    • 6月 アメリカ軍のサイパン島の上陸により、南興水産サイパン営業所所員の大半が戦死。
    • 8月 第三次南方開発派遣団の船が沈没。
    • 9月 第四次南方開発派遣団が焼津港を出港。
    • 10月 フィリピン方面の派遣団に現地召集がかかる。11月、現地の指揮下に入る。
  • 1945年 マニラ攻防戦、現地徴用された開発団団員からも多数の死者、捕虜が出る。そして終戦を迎えた。

  焼津漁業組合は戦況に応じて組織を改編し、焼津港の漁船の南方開発がそのまま徴用された結果となった。

徴用漁船の使用分類

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陸軍
  1. 日中戦争の初期では、暁部隊輸送部隊に配属され、港内での本船と着船場間の輸送[1]や、揚子江をはじめとする河川・水路沿岸地域での弾薬や食料などの軍需品輸送[1]、上海より上流の九江を輸送基地としての南京、漢口方面への軍需品輸送に当たっていた。水路が輻輳する華中・華南地方では、輸送のために小型船舶が必須とされたという事情があった[1]
  2. 太平洋戦争開戦後は南方にも派遣され、中国戦線と同様に軍需品などの輸送に従事した[2]。当初は沿岸や狭水路等での輸送任務が主体であったが、1942年頃からは制空権喪失下での隠密輸送・強行輸送にも動員され、被害が急増することとなった[2]
  3. 南方に展開している兵隊に対する魚の提供目的に、漁獲、運搬した。
海軍
海軍に徴用された船舶は、すべて「特設」(特設艦船)として32種類に分類された。
  1. 漁船は一般徴用(裸徴用)ともいわれ、雑用船として使用された。
  2. その後、特設監視艇として、北東太平洋に展開している米軍を監視し、無線で連絡した。しかし、その無線内容はほとんど米軍に解読され、日本軍および徴用船の被害を拡大させることになった。
  3. 軽武装を施し、南洋群島に展開する海軍に、砲艇として配属された漁船もあった。なかには、日本軍艦を狙った米軍の魚雷の楯となった漁船もあったという。
農林省
農林省が募集した船舶は、「特殊漁船」として徴用した。
  1. 「特殊漁船」は、海軍の管轄に置かれ、海軍から支給される燃料を使って、海上監視しながら漁獲操業をした。漁獲物は海軍が優先買いをし、余ったものを三崎港で販売し、軍からは最低補償を支給された。
  2. これら特殊漁船は、戦争末期には、操業中に、急遽、戦没した監視艇の代用船として配属された漁船もあった。
  3. 北海道への物資輸送として、青函連絡船の不足補充にあてられた漁船もあった。

申し合わせ・願書・陳情書

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  • 1938年 焼津、東益津、小川の各漁業組合で、漁船徴用に関する申し合わせを決定。
  • 1940年
    • 徴用船覚書: 徴用する船や乗組員の選出方法を決める。
    • 焼津鰹節商組合長 村松正之助が「八紘一宇」を主張。
  • 1941年
    • 徴用船申し合わせ: 軍属船乗組員の選出方法を決める。(帰還兵、徴用帰郷者は、満2ヶ年は選出されないなど)
    • 焼津鰹節生産有限会社で、「宣戦の大詔に応え奉る打ち合わせ会」が開催される。
  • 1942年 有限会社皇道産業焼津践団取締役社長 村松正之助が陸軍大臣 東条英機 宛に 願書を提出。

  「大東亜共栄圏建設の先駆たらん熱意を抱き、練成待機すること…」などと記し、徴用に積極的な姿勢を示した。

  • 1943年 大手船元、昭和漁業株式会社などは、徴用船貸出し会社と化し、操業がままならない状況に陥った。

  そのため、補償に関する内容を申し合わせた。

  • 1945年
    • このころ有限会社皇道産業焼津践団は、東海軍管区経理部作業班という名称で、会社ごと徴用された。
    • 終戦、武装解除後、団員 約二百名が捕虜となる
  • 1946年 昭和漁業株式会社などは、国に「陳情書」を提出。(徴用漁船補償金凍結解除要求)

戦時中、軍部は、徴用船に対して補償内容を提示していたものの、終戦後は補償金は凍結されたままであった。

焼津港の徴用船数と犠牲被害数

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詳細な数は不明だが、民家などに保存されていた資料などを合わせると、

  • 1937年 4隻
  • 1938年 20隻
  • 1939年 不明
  • 1940年 18隻
  • 1941年 22隻 (沈没船:1隻 戦死者:3人)
  • 1942年 7隻 (沈没船:2隻 戦死者:7人)
  • 1943年 15隻 (沈没船:3隻 戦死者:54人)
  • 1944年 23隻 (沈没船:31隻 戦死者:170人)
  • 1945年 8隻 (沈没船:22隻 戦死者:164人)

わかっているだけでも、合計、113隻が徴用され、59隻が沈没、犠牲者は 401人にのぼった。 この他に、1945年、沿岸で操業中の焼津漁船 7隻が米軍機の攻撃を受け、18人が死亡、9人の負傷者が出た。また、港に係留中の船が空襲に遭い、多くの船が炎上、沈没したという。詳細な内訳は付表を参照。

焼津港の漁船数の変化

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  • 1938年 漁船の総数:113隻 (動力船:105隻、無動力船:8隻)
  • 1945年 漁船の総数: 18隻 (鉄鋼船:6隻、木造船:12隻)

徴用船の乗組員

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具体的な名簿は見つかっていないが、当時、焼津港には全国から多数の出稼ぎの船員が集まっていた。また、焼津周辺地域の農家も、農閑期には船員として乗り込んでいたという。必ずしも全員が軍属として登録されていたとは限らなかったようだ。

付表

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徴用船の動向

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今まで判明したそれぞれの徴用漁船の動向を簡単にをまとめると、

徴用年月 漁船名 トン数 所管 艦隊等 部等 確認年月 消息 戦況・消失場所など 戦死者数
1938/7 久七丸 29 陸軍 船舶輸送 暁部隊 45/7 解除
1938/7 長福丸 20未 陸軍 船舶輸送 暁部隊 42/7 解除
1938/7 重兵衛丸 19 陸軍 船舶輸送 暁部隊 41/6 解除 1名
1938/7 汐波丸 20 陸軍 船舶輸送 暁部隊 41/6 解除
1938/7 金兵衛丸 20未 陸軍 船舶輸送 暁部隊 41/6 解除
1938/7 吉重丸 19 陸軍 船舶輸送 暁部隊 42/7 解除 1名
1938/7 増徳丸 16 陸軍 船舶輸送 暁部隊 (解除)
1938/7 若佐丸 18 陸軍 船舶輸送 暁部隊 (解除)
1938/7 角惣丸 16 陸軍 船舶輸送 暁部隊 41/6 解除
1938/7 快収丸 20 陸軍 船舶輸送 暁部隊 (解除)
1938/7 福住丸 20未 陸軍 船舶輸送 暁部隊 (解除)
1938/9 幸洋丸
1938/9 界洋丸
1938/9 吉栄丸
1938/12 第三富久丸 65 海軍 呉警備隊 42/2 売却
1938/12 政徳丸 72 海軍 44/7 沈没
1938/12 第三福一丸 68 海軍 佐世保鎮守府 41/2 売却
1938/12 第二明神丸 63 海軍 支那方面艦隊
1943/2 同船(再徴用) 陸軍 船舶司令部 暁部隊 44/1 沈没 揚子江 2名
1938/12 平七丸 69 海軍 支那方面艦隊
1940/12 同船(再徴用) 海軍 支那方面艦隊 45/8 帰還 上海脱出
1938/12 平宝丸 70 海軍 41/11 売却
1938/12 万亀丸 70 陸軍 船舶輸送 暁部隊
1940/12 同船(再徴用) 海軍 支那方面艦隊 45/8 沈没 上海
1938/12 第一春日丸 66 陸軍 船舶輸送 暁部隊 沈没 漢口 1名
1938/12 平運丸 65 海軍 支那方面艦隊
1941/1 同船(再徴用) 海軍 第五艦隊 監視艇隊 45/8 沈没 揚子江 2名
1940/10 第二福寿丸 70 海軍 支那方面 軍需部 45/8 帰還
1940/12 甚生丸 138 海軍 支那方面 駆逐隊
1941/9 同船(再徴用) 海軍 第四艦隊 警備隊 44/12 座礁放棄 トラック
1940/12 第一福徳丸 140 海軍 廈門 根拠地隊
1942/5 同船(再徴用) 海軍 第五艦隊 監視艇隊 44/5 沈没 千島列島 16名
1940/12 第五太洋丸 160 海軍 支那方面 駆逐隊 41/3 沈没 温州湾 2名
1940/12 竜神丸 131 海軍 香港 根拠地隊 45/3 沈没 広東湾 7名
1940/12 第五愛鷹丸 130 海軍 支那方面 駆逐隊
1941/9 同船(再徴用) 海軍 第四艦隊 警備隊 44/1 沈没 ウォッジェ環礁 5名
1940/12 第一金宝丸 139 海軍 支那方面 駆逐隊
1941/9 同船(再徴用) 海軍 第四艦隊 警備隊 44/10 グリニッジ島en 2名
1940/12 第三千代丸 151 海軍 第四艦隊 警備隊 45/8 帰還
1942/4 同船(再徴用) 海軍 第五艦隊 監視艇隊 44/9 戦闘 6名
1940/12 第一海洋丸 86 海軍 支那方面 軍需部 45/8 上海脱出
1940/12 第二宝松丸 154 海軍 支那方面
1941/9 同船(再徴用) 海軍 第四艦隊 警備隊 44/1 沈没 サイパン島
1940/12 第五福一丸 153 海軍 第四艦隊 監視艇
1941/8 同船(再徴用) 海軍 第五艦隊 監視艇隊 45/2 沈没 太平洋 36名
1940/12 新勢丸 148 海軍 支那方面 香港監視隊
1941/9 同船(再徴用) 海軍 第五艦隊 監視艇隊 45/8 帰還 43/3 戦傷者 13名 6名
1940/12 豊国丸 89 海軍 支那方面 軍需部 45/8 沈没 玄界灘
1940/12 新洋丸 93 海軍 第四艦隊 警備隊 44/5 沈没 北千島 1名
1940/12 鈴兵丸 107 海軍 支那方面 軍需部 44/7 沈没 揚子江 1名
1940/12 第五新開丸 98 海軍 舞鶴鎮守府
1942/1 同船(再徴用) 海軍 第四艦隊 警備隊 45/9 被災放棄
1941/1 勢進丸 87 海軍 第四艦隊 監視艇隊 45/5 沈没 サイパン 10名
1941/1 第五日之出丸 147 海軍 第四艦隊 警備隊 44/2 沈没 クェゼリン環礁 6名
1941/1 平蔵丸 66 海軍 艦隊軍需部 44/4 沈没 トラック 5名
1941/1 第八日之出丸 119 海軍 呉警備隊
1941/9 同船(再徴用) 海軍 第五艦隊 監視艇隊 43/8 座礁沈没 色丹島 3名
1941/2 第五福吉丸 119 海軍 第四艦隊 警備隊 44/1 沈没 ウォッジェ 4名
1941/2 第二八千代丸 86 海軍 第四艦隊 基地付属 45/7 沈没 トラック 1名
1941/3 第五福久丸 155 海軍 第四艦隊 警備隊 42/2 沈没 ウェーク島 1名
1941/6 第二栄吉丸 77 海軍 横須賀
1943/6 同船(再徴用) 海軍 船舶指令 暁部隊 44/8 沈没 ニューギニア 9名
1941/8 栄吉丸 150 海軍 第五艦隊 監視艇隊 45/8 帰還 42/4 戦闘
1941/8 第一亀宝丸 149 海軍 第四艦隊 警備隊 45/7 大破放棄 パラオ 4名
1941/8 第一吉祥丸 151 海軍 第四艦隊 警備隊 44/3 沈没 クェゼリン 2名
1941/8 第一見宝丸 179 海軍 第四艦隊 警備隊 42/2 沈没 ウェーク 5人
1941/8 幸生丸 104 海軍 第四艦隊 警備隊 45/7 被災放棄 トラック 7人
1941/8 第二三徳丸 147 海軍 第五艦隊 監視艇隊 45/2 沈没 小笠原諸島 12名
1941/8 水天丸 132 海軍 第四艦隊 警備隊 44/4 砲撃沈没 パラオ (4名)
1941/8 第三福吉丸 92 海軍 呉警備隊
1942/11 同船(再徴用) 海軍 第五艦隊 監視艇隊 45/8 接収 シンガポール 2名
1941/8 第一福久丸 152 海軍 第五艦隊 監視艇隊 45/8 帰還
1941/8 第三松盛丸 157 海軍 第五艦隊 監視艇隊 45/8 帰還 44/10.45/3 戦傷者11名 4名
1941/8 第五恵比寿丸 131 海軍 第五艦隊 監視艇隊 43/4 沈没 42/5 戦闘 31名
1941/10 松生丸 88 海軍 紀伊防備隊
1945/1 同船(再徴用) 海軍 第五艦隊 監視艇隊 45/8 帰還
1941/12 第五三国丸 80 海軍 第四艦隊 警備隊 44/6 沈没 ウォッジェ 11名
1942/1 第二清正丸 114 農林省 特殊漁船
1944/2 同船(再徴用) 海軍 横須賀鎮守府 44/5 沈没 南鳥島 25名
1942/1 第六勇喜丸 98 農林省 特殊漁船
1944/3 同船(再徴用) 海軍 第五艦隊 監視艇隊 45/8 帰還
1942/1 第三太洋丸 98 農林省 特殊漁船 43/6 売却
1942/1 繁伍丸 111 農林省 特殊漁船 44/4 売却
1942/2 第三福久丸 65 海軍 第五艦隊 監視艇隊 42/8 解除
1942/2 福積丸 131 海軍 補助監視船 44/7 沈没 小笠原
1942/9 第三福寿丸 154 農林省 特殊漁船
1944/2 同船(再徴用) 海軍 横須賀 44/6 沈没 太平洋上 25名
1943/1 第八太洋丸 128 農林省 特殊漁船 43/9 戦闘 3名
1944/2 同船(再徴用) 海軍 補助監視船 44/7 戦闘 放棄
1943/2 平宝丸 100 陸軍 船舶司令部 暁部隊 44/2 沈没 台湾海峡 2名
1943/2 第五水天丸 68 農林省 特殊漁船
1944/8 同船(再徴用) 海軍 横須賀 浦賀防備隊 45/4 座礁 天草沖
1943/2 第八東洋丸 63 陸軍 船舶司令部 暁部隊 44/3 沈没 ラバウル 3名
1943/2 第五三徳丸 32 陸軍 船舶司令部 暁部隊 44/1 沈没 ニューギニア
1943/4 第八福吉丸 83 海軍 第八艦隊 44/4 沈没 ラバウル 5名
1943/4 第三丈喜丸 83 海軍 横須賀 44/3 沈没 ラバウル 6名
1943/4 第三春日丸 63 海軍 第八艦隊 44/2 沈没 ラバウル 3名
1943/4 第三明神丸 129 農林省 特殊漁船
1944/3 同船(再徴用) 海軍 第五艦隊 監視艇隊 45/8 帰還
1943/6 第二春日丸 85 海軍 第四艦隊 警備隊 45/10 放棄 バンコク 2名
1943/6 第五事代丸 96 陸軍 船舶司令部 暁部隊 45/8 帰還
1943/6 第五増徳丸 91 陸軍 船舶司令部 暁部隊 43/8 沈没 ニューギニア 11名
1943/12 第二松生丸 農林省 特殊漁船
1944/3 同船(再徴用) 海軍 第五艦隊 監視艇隊 45/3 沈没 大東島 9名
1944/1 第二政徳丸 72 海軍 防備隊 44/1 沈没 トラック
1944/1 第十一日之出丸 55 海軍 45/2 沈没 奄美大島 3名
1944/1 第一水栄丸 61 海軍 防備隊 44/7 沈没 トラック
1944/1 第二豊国丸 52 海軍 防備隊 44/7 沈没 サイパン 11名
1944/2 第八富久丸 78 海軍 防備隊 44/7 沈没 小笠原
1944/3 第八恵比寿丸 97 45/8 帰還
1944/3 新兼丸 56 45/8 帰還
1944/3 第三勇喜丸 82 海軍 監視艇隊 45/8 帰還
1944/3 第十一愛鷹丸 65 海軍 防備隊 44/7 沈没 小笠原
1944/4 第一繁伍丸 137 海軍 第五艦隊 監視艇隊 45/8 帰還 45/2 戦闘
1944/8 第二増栄丸 51 海軍 横須賀 防備隊 45/7 沈没 山東省 16名
1944/8 第五亀宝丸 69 海軍 横須賀 防備隊 45/8 帰還
1944/8 第一事代丸 73 海軍 横須賀 防備隊 45/8 帰還
1944/8 第二幸生丸 65 海軍 横須賀 防備隊 45/7 沈没 山東省沖 6名
1944/8 第三宝松丸 54 海軍 横須賀 防備隊 45/8 帰還
1944/9 第二伊之丸 75 海軍 横須賀 防備隊 45/8 帰還
1944/9 第二国生丸 65 海軍 横須賀 防備隊 45/8 帰還
1944/9 第十一太洋丸 150 海軍 横須賀 防備隊
1944/9 三福丸 55 海軍 横須賀 防備隊
1944/9 亀生丸 42 陸軍 陸軍省 漁労隊 45/2~6 沖縄戦 15名
1944/? 第二新勢丸 56 45/7 沈没
1944/? 第八三国丸 45/2 沈没 フィリピン 18名
1944/? 第三若佐丸 36 44/9 沈没 サイパン 9名
1945/5 喜洋丸 10 陸軍 船舶部 暁部隊
1945/5 慶光丸 59 陸軍 船舶部 暁部隊
1945/5 原川丸 20 陸軍 船舶部 暁部隊 45/8 解除
1945/5 第五海洋丸 16 陸軍 船舶部 暁部隊 45/8 解除
1945/5 第三興光丸 10 陸軍 船舶部 暁部隊
1945/5 万栄丸 13 陸軍 船舶部 暁部隊
1945/5 魁神丸 14 陸軍 船舶部 暁部隊
1945/5 金盛丸 13 陸軍 船舶部 暁部隊
焼津漁業史』『漁船の太平洋戦争』『焼津漁業会・徴用船調査票』(非売品)と、民家の古書などを参考にして作成
  • 聞き取り調査によれば、他にも徴用された漁船があるというが、ここでは確認が取れたものだけ記した。1939年分については未だ資料が発見されていない。また、ここに記されていない1937年の4隻については、船名こそ分からないが、4隻の徴用があったという記録がある。
  • 再徴用された船舶は、この表に記した船舶の他にもあるという。また、一般操業中に徴用されたり、戦況に応じて転属された船舶もあったという証言もある。

脚注

[編集]
  1. ^ a b c 『陸軍船舶戦争』pp.129-134
  2. ^ a b 『陸軍船舶戦争』pp.239-244・266-271

参考文献

[編集]
  • 服部政徳『漁船の太平洋戦争』殉国漁船顕彰委員会、1992年。 
  • 焼津漁業協同組合『焼津漁業史』焼津漁業協同組合、1964年。 
  • 同上『焼津漁業史 追補』同上、1979年。 
  • 松原茂生遠藤昭『陸軍船舶戦争』(戦誌刊行会、1996年 ISBN 4795246335

外部リンク

[編集]