烈々布
烈々布 | |
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烈々布会館 | |
北緯43度7分53.8秒 東経141度21分58.3秒 / 北緯43.131611度 東経141.366194度 | |
国 |
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都道府県 |
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市町村 |
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行政区 | 北区・東区 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
烈々布(れつれっぷ)は、北海道札幌市の北区と東区にまたがる地域を指した名称。すでに公称地名としては消失しており、わずかな施設の名称に痕跡を留めるのみとなっている。
語源はアイヌ語と思われるが、判然としない[1]。1882年(明治15年)の『札幌県石狩国札幌郡 札幌村・丘珠全図』には、丘珠村と札幌村との村境を通り篠路村に流れ込む「レツレップ古川」が記されており、川の名前であったらしい[2]。この川の始点は旧石狩街道によって伏籠川から切断されており、アイヌ語研究家の藤村久和は語源を「ル・エ・トイェ・プ (ru-e-tuye-p)、道がそこで(川を)切っているもの」と考察している[2]。
概要
[編集]1916年(大正5年)の地形図には「篠路烈々布」「札幌烈々布」「丘珠烈々布」の名が見られ、これらは互いに隣接していた[1]。
篠路烈々布
[編集]篠路烈々布は1860年(万延元年)、星置から入植した中島彦右衛門が中島村を開いたことに始まるが、この試みは明治維新の影響で中断した[1]。その後、1881年(明治14年)に福岡県から北海道を訪れた報国社のうち数戸が、1883年(明治16年)にこの地に入植して烈々布部落を形成したという[1]。
烈々布は1937年(昭和12年)に行われた字名の整理によって「太平」に改名された[1]。さらに1983年(昭和58年)には百合が原公園が造成され、1998年(平成10年)には一部が百合が原として区分された[3]。 旧地名を冠した施設「烈々布会館」の所在地も百合が原11丁目となっている。
北区歴史と文化の八十八選には、烈々布にまつわるものが含まれている。
- 67.「篠路烈々布開基百年」碑
- 1982年(昭和57年)建立。烈々布会館前にある。
- 68.篠路烈々布郷土資料館
- 烈々布会館内の一角で、開拓当時の日用品や篠路獅子舞の資料などを展示している。
- 72.篠路獅子舞
- かつては「烈々布獅子舞」と呼ばれ、烈々布天満宮の春秋の祭りで演じられていた。
札幌烈々布
[編集]『札幌村史』における「烈々布」の最初の用例は、1870年(明治3年)における農家7戸への言及である[4]。ただ、彼らが同年に入植を開始したのか、それとも以前から居住していたのかまではわからない[5]。
烈々布地域は、後の住所区分では「栄町」一帯に該当する[5]。北42条東10丁目1番地の烈々布神社にその名を残すほか、神社が面する丘珠空港通も古くは「烈々布街道」と呼ばれていた[5]。
ギャラリー
[編集]-
「篠路烈々布開基百年」碑
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篠路獅子舞 2015年
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烈々布神社
脚注
[編集]- ^ a b c d e 『札幌地名考』p.55
- ^ a b 札幌市北区 - 9.語源はアイヌ語?-篠路烈々布
- ^ 札幌市 - 住居表示実施地区-北区
- ^ 『札幌地名考』p.62
- ^ a b c 『札幌地名考』p.63
参考文献
[編集]- 『札幌地名考』さっぽろ文庫1
関連リンク
[編集]- 日本短波放送札幌送信所 - 日本電信電話公社烈々布無線送信所の一角にあった。
- 烈々布神社