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瀬谷啓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
瀬谷 啓
生誕 1889年(明治22年)10月3日
日本の旗 日本 栃木県
死没 1954年(昭和29年)5月27日
所属組織 日本陸軍
軍歴 1910年(明治43年) - 不明
最終階級 陸軍中将
除隊後 ソ連抑留
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瀬谷 啓(せや ひらく、明治22年(1889年10月3日 - 昭和29年(1954年5月27日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

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栃木県出身。父は黒羽藩家老であった安藤小次郎[1]。瀬谷月山の養子となる。成城中学校陸軍中央幼年学校予科同校本科を経て、1910年5月、陸軍士官学校(22期)を首席卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第59連隊付となった。1918年11月、陸軍大学校(30期)を卒業。

陸軍省軍務局付勤務、陸大教官、アルゼンチン公使館付武官奈良連隊区司令部付、歩兵第70連隊大隊長、陸大教官、歩兵第13連隊長、近衛師団司令部付(東京帝国大学配属将校)などを経て、1937年、陸軍少将に昇進。

第3師団司令部付、歩兵第33旅団長などを歴任。歩兵第33旅団長として台児荘の戦い徐州会戦武漢作戦などを連戦した[2]1939年10月、陸軍中将となった。基隆要塞司令官を経て、1940年8月、予備役に編入。1944年3月、満州国鉄路警護司令官に就任し、1945年4月、召集を受け羅津要塞司令官となり終戦を迎えた。同年9月、ソ連抑留。1957年(昭和29年)5月27日に満州で自決したとされるが、詳細は不明[3]

年譜

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  • 1910年 - 陸軍士官学校(22期)卒
  • 1918年 - 陸軍大学校(30期)卒
  • 1937年8月2日 - 陸軍少将
  • 1939年10月2日 - 陸軍中将
  • 1940年8月31日 - 予備役編入
  • 1944年3月 - 満州国鉄路警護司令官
  • 1945年4月1日 - 羅津要塞司令官
  • 1954年5月27日 - 死去

栄典

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親族

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  • 息子 瀬谷胖(陸軍大尉)
  • 安藤三郎(陸軍中将)

脚注

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  1. ^ 秦 2005, p. 88, 第1部 主要陸海軍人の履歴:陸軍:瀬谷啓
  2. ^ 伊藤 2018, 159頁.
  3. ^ 伊藤 2018, 161頁.
  4. ^ 『官報』第8313号「叙任及辞令」1911年3月11日。
  5. ^ 『官報』第460号「叙任及辞令」1914年2月12日。
  6. ^ 『官報』第1988号「叙任及辞令」1919年3月21日。
  7. ^ 『官報』第3533号「叙任及辞令」1924年6月4日。
  8. ^ 『官報』第3208号「叙任及辞令」1937年9月10日。

参考文献

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  • 秦郁彦 編著『日本陸海軍総合事典』(第2版)東京大学出版会、2005年。ISBN 4-13-030135-7 
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 伊藤禎『大東亜戦争責任を取って自決した陸軍将官26人列伝』展望社、2018年。ISBN 4885463513