瀬谷啓
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瀬谷 啓 | |
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生誕 |
1889年(明治22年)10月3日 日本 栃木県 |
死没 | 1954年(昭和29年)5月27日 |
所属組織 | 日本陸軍 |
軍歴 | 1910年(明治43年) - 不明 |
最終階級 | 陸軍中将 |
除隊後 | ソ連抑留 |
瀬谷 啓(せや ひらく、明治22年(1889年)10月3日 - 昭和29年(1954年)5月27日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]栃木県出身。父は黒羽藩家老であった安藤小次郎[1]。瀬谷月山の養子となる。成城中学校、陸軍中央幼年学校予科、同校本科を経て、1910年5月、陸軍士官学校(22期)を首席卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第59連隊付となった。1918年11月、陸軍大学校(30期)を卒業。
陸軍省軍務局付勤務、陸大教官、アルゼンチン公使館付武官、奈良連隊区司令部付、歩兵第70連隊大隊長、陸大教官、歩兵第13連隊長、近衛師団司令部付(東京帝国大学配属将校)などを経て、1937年、陸軍少将に昇進。
第3師団司令部付、歩兵第33旅団長などを歴任。歩兵第33旅団長として台児荘の戦い、徐州会戦、武漢作戦などを連戦した[2]。1939年10月、陸軍中将となった。基隆要塞司令官を経て、1940年8月、予備役に編入。1944年3月、満州国鉄路警護司令官に就任し、1945年4月、召集を受け羅津要塞司令官となり終戦を迎えた。同年9月、ソ連抑留。1957年(昭和29年)5月27日に満州で自決したとされるが、詳細は不明[3]。
年譜
[編集]- 1910年 - 陸軍士官学校(22期)卒
- 1918年 - 陸軍大学校(30期)卒
- 1937年8月2日 - 陸軍少将
- 1939年10月2日 - 陸軍中将
- 1940年8月31日 - 予備役編入
- 1944年3月 - 満州国鉄路警護司令官
- 1945年4月1日 - 羅津要塞司令官
- 1954年5月27日 - 死去
栄典
[編集]- 1911年(明治44年)3月10日 - 正八位[4]
- 1914年(大正3年)2月10日 - 従七位[5]
- 1919年(大正8年)3月20日 - 正七位[6]
- 1924年(大正13年)5月15日 - 従六位[7]
- 1937年(昭和12年)9月1日 - 正五位[8]
親族
[編集]- 息子 瀬谷胖(陸軍大尉)
- 兄 安藤三郎(陸軍中将)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 秦郁彦 編著『日本陸海軍総合事典』(第2版)東京大学出版会、2005年。ISBN 4-13-030135-7。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 伊藤禎『大東亜戦争責任を取って自決した陸軍将官26人列伝』展望社、2018年。ISBN 4885463513。