滝川忠尚
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 貞享4年9月29日(1687年11月3日) |
別名 | 通称:又左衛門 |
主君 | 徳川義直、光友 |
藩 | 尾張藩 |
氏族 | 滝川氏 |
父母 | 父:滝川忠征、母:不明 |
兄弟 | 法直、時成、忠尚、伊木有斎室、松井藤助室、杉山内匠室、浅野忠正室、津田知信室、生駒九郎左衛門室、那須左近室 |
子 | 忠周 |
滝川 忠尚(たきがわ ただなお)は、江戸時代前期の尾張藩士。
生涯
[編集]尾張藩年寄(家老)滝川忠征の三男(夭折した兄を含めると五男)。忠征が高齢になってから生まれた男子で、母は系譜上で不明とされている[3]。
寛永12年(1635年)、父が77歳で病死すると、その隠居料1000石を与えられ、父の家督を継いでいた兄時成から独立して別家を起こし[3]、寄合に入れられた[2]。
寛永15年(1638年)、御旗奉行に任命されてこの職を長く務めた[2]。
天和2年(1682年)、大番頭に任命され、貞享4年(1687年)に在職のまま没した[2]。
系譜
[編集]- 父:滝川忠征(1559 - 1635)
- 母:不明
- 妻:不明
- 長男:滝川忠周(1658 - 1710)
子孫は代々「又左衛門」を通称とする。忠尚の死後、嫡男の忠周が家督を継いで家禄1000石を継ぎ、父と同じ御旗奉行を務めたが、宝永7年(1710年)、嗣子を残さずに没した。このため時成の曾孫忠栄が末期養子に迎えられて又左衛門家の名跡を相続し500石を改めて与えられるが、享保15年(1730年)に断絶した本家の名跡を継ぐことになり、又左衛門家は3代で断絶した[2][3]。文政6年(1823年)、本家第9代(忠栄の養孫)忠暁が隠居に当たって五男忠貫に1000石を分知して又左衛門家を再興し、忠貫は側用人、城代、年寄等の要職を歴任した[4]。
参考文献
[編集]- 『士林泝洄』巻5
脚注
[編集]- ^ 『寛政重脩諸家譜. 第4輯』國民圖書, 1923, p. 448.
- ^ a b c d e 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書. 続編 第17巻 士林泝洄 第1』, 名古屋市教育委員会, 1966年, p. 121.
- ^ a b c 『諸家系譜』滝川・滝・滝野・滝村・立花.
- ^ “新修名古屋市史資料 公開資料一覧” (pdf). 名古屋市市政資料館 (2019年3月). 2025年2月16日閲覧。