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源経成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
源経成
時代 平安時代中期
生誕 寛弘6年(1009年
死没 治暦2年7月9日1066年8月2日
官位 正二位権中納言
主君 後一条天皇後朱雀天皇後冷泉天皇
氏族 醍醐源氏代明親王流
父母 父:源長経、母:藤原時方の娘
兄弟 経成、小兵衛、経信、仁暹
藤原泰通の娘
重綱、重資、成経
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源 経成(みなもと の つねなり)は、平安時代中期の公卿醍醐源氏大納言源重光の孫。越前守源長経の長男。官位正二位権中納言

経歴

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後一条朝治安3年(1023年諸陵助に任ぜられると、右近衛将監六位蔵人を経て、万寿5年(1028年従五位下侍従に叙任される。その後、少納言を務め、長元5年(1032年)従五位上、長元9年(1036年正五位下と昇叙された。

後朱雀朝に入り、長暦2年(1038年左少弁五位蔵人に任ぜられると、長久2年(1041年)権右中弁、長久3年(1042年従四位下・右中弁、久4年(1043年正四位下・権左中弁と要職の弁官を務めながら急速に昇進し、長久5年(1044年蔵人頭(頭弁)を兼ねた。寛徳2年(1045年)正月に後冷泉天皇即位すると蔵人頭を止められるが、10月に再任され、永承3年(1048年参議に任ぜられて公卿に列した。

議政官の傍らで、修理大夫兵衛督検非違使別当)を兼ね、永承6年(1051年正三位、天喜5年(1057年従二位と昇進した。康平4年(1061年権中納言に昇進し、康平8年(1065年正二位に至る。

治暦2年(1066年)7月9日薨去享年58。最終官位は権中納言正二位。

逸話

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康平4年(1061年)の権中納言昇進に関して、以下の話が伝わっている。

権中納言に欠員が生じて経成がこれを所望していた際、石清水八幡宮に詣でて、神主(紀輔任)に対して「(私は検非違使別当として)強盗百人の首を刎ねた者である。この功労により今回の欠員が生じた納言を拝任されるよう、祈祷せよ」と言った。神主が言うには「吾が神は殺生を禁断し、放生(捕らえられている魚や鳥などを買いとって河・山に放す慈悲行)を宗とされている。どうしてそのようなことを申し上げることができようか」。経成が重ねて言うには「御禁断、放生の宗、御託宣の文で明白である。但し、この託宣の文末には『国家のために、臣、殺す者出で来ること有らんの時、此の限りに非ず』」とあるはずだ。どうして知らないのか。ちゃんと申し上げるように」。神主が(経成の言うように)申し上げたところ、果たして経成は権中納言に任ぜられた。(『古事談』)[1]

官歴

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公卿補任』による。

系譜

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脚注

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  1. ^ 『古事談』第5-8「経成、石清水に祈り中納言に任ずる事」

参考文献

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登場作品

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軍職
先代
藤原経任
左兵衛督
1061 - 1066
次代
藤原経季
先代
藤原経任
検非違使別当
1050 - 1065
次代
藤原能長
先代
藤原良頼
右兵衛督
1049 - 1061
次代
藤原経季