源師隆
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時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 承保2年(1075年) |
死没 | 長承3年(1134年) |
官位 | 正四位下、大蔵卿 |
主君 | 堀河天皇→鳥羽天皇→崇徳天皇 |
氏族 | 村上源氏 |
父母 | 父:源師忠、母:源俊長の娘 |
兄弟 |
師隆、師親、寛遍、輔仁親王妃、師長、染殿、源師時室 養兄弟:師俊 |
妻 | 藤原為房の娘、藤原能実の娘 |
子 | 俊隆、師経、上西門院一条 |
源 師隆(みなもと の もろたか)は、平安時代後期の貴族。村上源氏、大納言・源師忠の子。官位は正四位下・大蔵卿。
経歴
[編集]白河院政期初頭の寛治2年(1088年)摂政・藤原師実の春日社参詣の際に源少将として名が見える[1]。寛治4年(1090年)8月の放生会に左近衛少将として名がある。寛治6年(1092年)2月に従四位下に叙されるが、四位少将が6人という前代未聞の状況になったため、6月になって師隆は中宮権亮に遷任させられた。寛治7年(1093年)2月に従四位上、3月に正四位下と続けて陞叙。寛治8年(1094年)左馬頭に任ぜられ、同年5月の五巻の日には捧物を持って参会しているのが確認できる[2]。
嘉保3年(1096年)の永長の大田楽の際には小鼓を演じたという[3]。11月には令子内親王の相嘗祭神楽が行われた際、それに参会している[4]。永長2年(1097年)讃岐権守を兼任する。承徳2年(1098年)藤原師通が興福寺に参じた際には参人として名がある[5]。
大治4年(1129年)大蔵卿に任ぜられる。長承3年(1134年)卒去。享年60。
師隆は舞人としても活躍。寛治5年(1091年)の藤原師実賀茂参詣[6]、永長2年(1097年)の行幸時、康和4年(1102年)3月の試楽、嘉保2年(1095年)の行幸などでは舞人として参加した[7]。また、康和4年(1102年)には拍子合を行っている[8]。
官歴
[編集]- 時期不詳:従五位上
- 応徳2年(1085年) 正月?:見民部少輔安芸介[9]
- 寛治2年(1088年) 正月25日?:左近衛少将[10]
- 寛治5年(1091年) 正月28日:見駿河守[11]
- 寛治6年(1092年) 2月29日:従四位下(中宮御給)[12]。9月7日:中宮権亮、止少将(四位少将六人之例古今未有也)[12]
- 寛治7年(1093年) 2月6日:従四位上(陽明門院未給)[13]。3月22日:正四位下(中宮行啓勧賞)[12]
- 寛治8年(1094年) 7月13日:見左馬頭[12]。日付不詳:見讃岐介[14]
- 永長2年(1097年) 正月29日:兼讃岐権守[15]
- 大治4年(1129年) 日付不詳:大蔵卿
- 長承3年(1134年) 日付不詳:卒去