源兼定
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時代 | 平安時代後期 - 鎌倉時代初期 |
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生誕 | 久安5年(1149年) |
死没 | 建保4年6月16日(1216年7月2日) |
改名 | 雅能(初名)→兼房→兼定 |
官位 | 従三位、治部卿 |
主君 | 鳥羽上皇→近衛天皇→後白河天皇→二条天皇→六条天皇→高倉天皇→安徳天皇→後鳥羽天皇→土御門天皇→順徳天皇 |
氏族 | 村上源氏雅兼流 |
父母 | 父:源雅頼、母:源盛定の娘 |
兄弟 | 兼定、兼忠、頼房、範雅、明昌、任雅、定真、聖雅、中院通方室、西園寺公経室 |
子 | 定平、兼平、家兼、隆兼、定実、国平、兼遍、澄舜、定成 |
源 兼定(みなもと の かねさだ)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿。従三位治部卿。
経歴
[編集]村上源氏雅兼流、権中納言・源雅頼の長男。官位は従三位・治部卿。
母は太皇太后宮少進・源盛定の娘。初名は雅能、兼房と改名し、さらに兼定と改めた。弟・兼忠に比べると極めて遅い昇進であるため、雅頼の事実上の嫡子は兼忠であったと考えられる。生母の出自も兼忠の母の方が格上である。
官歴
[編集]以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
- 保元元年(1156年)11月28日、叙爵[1]。
- 応保元年(1161年)1月23日、民部大輔に任ぜられる[2]。
- 長寛3年(1165年)1月5日、従五位上に昇叙。
- 仁安2年(1167年)1月30日、讃岐介を兼ねる。
- 承安2年(1172年)、昇殿を許され宇佐使を勤める。
- 安元元年(1175年)、除籍された。
- 治承元年(1177年)11月15日、母の喪が明けて復任[3]。
- 治承3年(1179年)還任して昇殿を許された。
- 寿永2年(1183年)1月5日、正五位下に昇叙[4]。
- 文治5年(1189年)9月26日、木工頭に任ぜられる[5]。
- 建久元年(1190年)10月9日、父・雅頼の喪が明けて復任した。
- 建久5年(1194年)1月30日、越前権介を兼ねる。
- 建久8年(1197年)1月30日、蔵人に補される。
- 建久9年(1198年)1月11日には新帝の蔵人に補される。
- 元久元年(1204年)4月12日、左少弁に任ぜられる[6]。
- 元久2年(1205年)1月5日、従四位下に昇叙。
- 建永元年(1206年)10月10日、権右中弁に転任。
- 建永2年(1207年)1月5日、従四位上に昇叙。
- 承元元年(1207年)10月29日、右中弁に転任。
- 承元2年(1208年)7月9日、左中弁に転任し、同月13日には装束使を勤める。12月9日、正四位下に昇叙。
- 承元3年(1209年)1月13日、左中弁と木工頭を止め、治部卿に任ぜられる[7]。
- 承元4年(1210年)6月17日、従三位に叙される。
- 建暦元年(1211年)10月12日、治部卿を辞した[8]。
- 建保4年(1216年)6月15日に出家し、16日に薨去。享年68。