コンテンツにスキップ

湛増庸一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
湛増庸一

湛増 庸一(たんそう よういち、1886年明治19年)4月17日[1]1941年昭和16年)5月14日[1])は、日本政治家、教育者。衆議院議員(1期)。

経歴

[編集]

岡山県久米郡倭文西村(現在の美咲町)出身[1]1904年(明治37年)、岡山県立第一中学校を卒業[1]1908年(明治41年)に東京帝国大学農科大学を卒業[2]。その後、アメリカ合衆国に留学して、ミネソタ州立農科大学を卒業し、さらにノースダコタ大学に学んだ[1]1912年(明治45年)に帰国した後は、岡山県農業試験場講師、山本農学校校長・山本実科高等女学校校長[注釈 1]などを務めた[1]

1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬して当選を果たしたがその際、同じ岡山県第七区での競合相手だった藤島守太と談合して藤島方の選挙民を1万円で買収、衆議院選挙罰則違反で禁錮3月の判決を受け、1925年(大正14年)11月19日、大審院で上告棄却され、失職した[3][4][5]。これにより正八位返上を命じられ[6]大礼記念章を褫奪された[7]

1926年、日本農村協会を創設し専務理事となり[1]、また中国民報社常務理事を務めた[2]。その後、国民精神総動員連盟総務部長に就任した[1]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 山本農学校校長・山本実科高等女学校は、久米郡出身の実業家山本唯三郎が寄付した資金で、倭文東村桑下(現在の津山市桑下)に設立された学校。

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h 遺徳顕彰録 pp.28-31 1942.
  2. ^ a b 衆議院議員名鑑 1962.
  3. ^ 一万円で不正当選」『日米時報』1924年7月5日、7面。2024年5月29日閲覧。
  4. ^ 中立派湛増庸一氏 岡山県選出代議士 選挙法違反で三箇月の禁錮」『新世界』1924年11月20日、1面。2024年5月29日閲覧。
  5. ^ 『官報』第3974号、大正14年11月21日。
  6. ^ 官報 1926年7月5日 一三四頁
  7. ^ 官報 1926年7月7日 一八二頁

参考文献

[編集]
  • 大日本頌徳会編纂部『遺徳顕彰録 第三輯』大日本頌徳会、1942年。 
  • 衆議院・参議院編『議会制度七十年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1962年。