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渡部審也

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

渡部 審也(わたなべ しんや、1875年12月26日 - 1950年12月5日[1])は洋画家である。作品のほとんどが関東大震災第二次世界大戦などで焼けてしまい、残っていない。

人物

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岐阜県大垣市室町の大垣藩士・渡部弘の子。父の弘も廃藩された後は絵画に専念した。兄の渡部鍬太郎(金秋、1860年 - 1905年[2])も洋画家である。1890年(明治23年)、兄・鍬太郎を頼り東京へ上京。金秋から洋画を学ぶ。1894年(明治27年)、国粋主義思想の強い中、洋画を排斥する動きに反し、明治美術会教場に入学。

作品

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著書

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脚注

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  1. ^ 渡部審也」『20世紀日本人名事典』日外アソシエーツhttps://kotobank.jp/word/%E6%B8%A1%E9%83%A8%E5%AF%A9%E4%B9%9Fコトバンクより2025年1月10日閲覧 
  2. ^ 東京大学の画工―渡部鍬太郎”. JPタワー学術文化総合ミュージアム インターメディアテク. 2025年1月10日閲覧。
  3. ^ a b c d 小堀桂一郎監修 所功編著 『名画にみる 國史の歩み』 近代出版社、2000年4月19日、pp.14,62,83,95、ISBN 978-4-907816-00-1