渡辺章 (陸軍軍人)
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渡辺 章(わたなべ しょう、1851年3月31日(嘉永4年2月29日) - 1934年(昭和9年)5月27日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。男爵。
経歴
[編集]山口県出身。明治4年8月28日(1871年10月12日)、陸軍少尉に任官。日清戦争には第1軍高級副官として出征し、さらに1895年(明治28年)3月、歩兵第18連隊長に転じた。1897年(明治30年)10月、歩兵大佐に昇進し歩兵第42連隊長に就任した。
1900年(明治33年)10月、留守歩兵第21旅団長となり、1901年(明治34年)4月、陸軍少将に進級し歩兵第24旅団長に就任。1902年(明治35年)6月、近衛歩兵第2旅団長に異動し日露戦争に出征。奉天会戦後の1905年(明治38年)6月、後備混成第5旅団長に発令され、韓国北部の平定作戦に参加した。
1906年(明治39年)1月、歩兵第19旅団長に移り、同年7月、陸軍中将に進み第8師団長に親補された。1907年(明治40年)9月21日、その功績により男爵の爵位を授爵し華族となった。1908年(明治41年)12月、第3師団長に転じ、1913年(大正2年)3月、後備役に編入され、1918年4月1日に退役した[1]。
栄典
[編集]- 1885年(明治18年)10月31日 - 従六位[2]
- 1892年(明治25年)3月11日 - 正六位[3]
- 1897年(明治30年)7月10日 - 従五位[4]
- 1901年(明治34年)7月10日 - 正五位[5]
- 1906年(明治39年)7月30日 - 従四位[6]
- 1908年(明治41年)9月30日 - 正四位[7]
- 1911年(明治44年)10月20日 - 従三位[8]
- 1913年(大正2年)3月10日 - 正三位[9]
- 1924年(大正13年)3月15日 - 従二位[10]
- 1934年(昭和9年)5月27日 - 正二位[11]
- 勲章等
- 1885年(明治18年)4月7日 - 勲五等双光旭日章[12]
- 1893年(明治26年)5月26日 - 勲四等瑞宝章[13]
- 1895年(明治28年)10月18日 - 功四級金鵄勲章・旭日小綬章[14]
- 1899年(明治32年)5月9日 - 勲三等瑞宝章[15]
- 1901年(明治34年)10月1日 - 功三級金鵄勲章・旭日中綬章[16]
- 1902年(明治35年)5月10日 - 明治三十三年従軍記章[17]
- 1905年(明治38年)5月30日 - 勲二等瑞宝章[18]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 功二級金鵄勲章・旭日重光章・明治三十七八年従軍記章[19]
- 1907年(明治40年)9月21日 - 男爵[20]
- 1934年(昭和9年)5月27日 - 勲一等瑞宝章[11]
脚注
[編集]- ^ 『官報』第1701号、大正7年4月8日。
- ^ 『官報』第730号「賞勲叙任」1885年12月5日。
- ^ 『官報』第2607号「叙任及辞令」1892年3月12日。
- ^ 『官報』第4207号「叙任及辞令」1897年7月12日。
- ^ 『官報』第5406号「叙任及辞令」1901年7月11日。
- ^ 『官報』第6926号「叙任及辞令」1906年7月31日。
- ^ 『官報』第7581号「叙任及辞令」1908年10月1日。
- ^ 『官報』第8502号「叙任及辞令」1911年10月21日。
- ^ 『官報』第182号「叙任及辞令」1913年3月11日。
- ^ 『官報』第3469号「叙任及辞令」1924年3月19日。
- ^ a b 『官報』第2222号「叙任及辞令」1934年5月31日。
- ^ 『官報』第571号「賞勲叙任」1885年5月29日。
- ^ 『官報』第2974号「叙任及辞令」1893年5月31日。
- ^ 『官報』第3693号「叙任及辞令」1895年10月19日。
- ^ 『官報』第4754号「叙任及辞令」1899年5月10日。
- ^ 『官報』第5487号「叙任及辞令」1901年10月15日。
- ^ 『官報』第5874号・付録「辞令」1903年2月4日。
- ^ 『官報』第6573号「叙任及辞令」1905年5月31日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
- ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
参考文献
[編集]- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 渡辺(章)家初代 1907年 - 1934年 |
次代 栄典喪失 |