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深尾繁峯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
深尾繁峯
時代 江戸時代中期
生誕 元禄10年6月23日1697年8月9日[1]
死没 宝暦2年4月27日1752年6月9日[2]
改名 孫八(幼名)→常重(初名)→繁峯
別名 通称:左京、平右衛門
官位 左京亮
主君 山内豊隆豊常豊敷
土佐藩
氏族 深尾家
父母 父:深尾重方
兄弟 繁峯稠済
正室:中山篤親
側室:出雲路信直次女
繁英山内豊之山内茂信
養子:稠済(実弟)、
茂澄(山内茂信子)
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深尾 繁峯(ふかお しげみね)は、江戸時代中期の土佐藩の家老。深尾家当主・佐川領主5代。

略歴

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元禄10年(1697年)、深尾重方の子として誕生した。

宝永3年(1706年)、父・重方が咎めを受けて隠居することとなり家督相続する。同年12月、家老職に任じられる。

享保5年(1720年)、土佐藩7代藩主・山内豊常の家督相続の御礼言上の際に、江戸城で8代将軍・徳川吉宗に拝謁する。享保11年(1726年)、弟の稠済を養嫡子とし、藩主・豊常に御目見させる。享保17年(1732年)、病のため稠済が政務を代行する。

元文元年(1736年)、次男・豊之が藩主一門・山内豊成の婿養子となる。元文4年(1739年)、長男・繁英が稠済の養子となる。その後、稠済、繁英に先立たれたため、寛延2年(1749年)8月、山内隼人茂信山内規重の子)の子の茂澄を養子に迎えた。

宝暦2年(1752年)、死去した。

父・重方と同じく学問に熱心で、地元佐川の出身であった儒学者・富永惟安を招き儒臣として登用した。

系譜

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家臣

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  • 上村八郎兵衛
  • 岩神九兵衛
  • 山田源左衛門

脚注

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  1. ^ 『佐川町誌』(佐川町自治会、1919年)p.382
  2. ^ 『佐川町誌』(佐川町自治会、1919年)p.383

出典

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先代
深尾重方
佐川深尾家5代当主
1706年 - 1752年
次代
深尾茂澄