淡輪重政
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 慶長20年4月29日(1615年5月26日) |
別名 | 通称:六郎兵衛 |
墓所 | 大阪府泉佐野市南中樫井 |
主君 | 豊臣秀吉→小西行長→豊臣秀頼 |
氏族 | 淡輪氏 |
父母 | 父:淡輪隆重 |
兄弟 |
重利、重政、 小督局(豊臣秀次側室、お菊母) |
淡輪 重政(たんのわ しげまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。豊臣氏の家臣。
略歴
[編集]水軍衆として活躍した淡輪徹斎(淡輪隆重/良重)の次男として誕生した。
義理の妹・小督局(お菊の母、養女)は豊臣秀次の側室であったが、秀次は豊臣秀吉に切腹を命じられた(秀次事件)。小督局も三条河原で処刑され、淡輪家も連累して所領が没収されて失領してしまい、重政は同郷の小西行長を頼ってこれに仕えたが、同家も関ヶ原の役後に改易されたので、浪人となった。
慶長19年(1614年)から始まる大坂冬の陣では、兄・重利が浅野家に仕えていた一方で、重政は旧領回復を目指して豊臣方に仕官した。
翌年の大阪夏の陣では、大野治房の紀州攻めに参加して、樫井の戦いで徳川方の浅野長晟軍と戦った。ところが塙直之と岡部則綱らの先陣争いで戦列が乱れ、重政も乱戦のなかで深入りしてしまい、永田治兵衛に首を討ち取られた。治房は諸将の戦死を聞いて驚き、樫井村に火を放って撤退した。
兄の重利の一族は紀州藩士として続いた。甥の淡輪新兵衛が供養のために泉州日根野郡樫井村に石塔を立て、これが現在も残っている。
参考文献
[編集]- 藤沢衛彦 編『国立国会図書館デジタルコレクション 日本伝説叢書. 和泉の巻』日本伝説叢書刊行会、1920年 。
- 河村与一郎 編「国立国会図書館デジタルコレクション 永田治兵衛伝」『撃剣名家豪雄言行録』国民社、1885年 。
- 国史研究会 編「国立国会図書館デジタルコレクション 樫井合戰附塙團右衞門・淡輪六郞兵衞戰死の事」『国史叢書・新東鑑』国史研究会、1915年 。