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浅間 (コルベット)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
浅間
基本情報
建造所 (フランス[1]・ハリス[2])
運用者  大日本帝国海軍
艦種 コルベット[3]
艦歴
就役 1874年7月26日 日本海軍籍に編入
除籍 1891年3月3日[1]
改名 北海丸 → 浅間[4]
要目
排水量 1,130英トン[3]
常備排水量 1,422トン[1][5]
トン数 784トン[2]
長さ 226[3](約68.5m)
垂線間長 228 ftin (69.72 m)[5]
31尺5[3](約9.5m)
または28 ft 9 in (8.76 m)[5]
深さ 24尺5[3](約7.4m)
吃水 14尺[3](約4.2m)
または14 ft 0 in (4.27 m)[5]
または前部13 ft 0 in (3.96 m)、後部14 ft 6 in (4.42 m)[6]
ボイラー (兜型[3])円缶[7] 2基[6]
主機 双塔型機関[3]
推進 2翼スクリュー[6]2軸[3]
または 1軸[5]
出力 300IHP[3][5]
または実用馬力300[6]
帆装 3バーク[3]
速力 11ノット[5]
燃料 炭団:500,000[3]
航続距離 燃料消費:60,000斤/日[3]
乗員 准士官以上28名、下士30名、火水夫194名[6]
1874年:275名[3]
1878年2月定員:132名[8]
1885年12月定員:183名、砲術練習員最大120名[9]
兵装 砲 14門[10]
または6.7インチ砲 8門、4.5インチ砲 4門[5]
または16cmクルップ砲5門、テラッケソー40斤砲4門、短4斤野戦砲2門[6]
その他 船材:[1][3]
船番号:第19番(北海丸)[11][12]
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浅間(あさま)は、日本海軍軍艦。 3バーク型のコルベット[3]。 艦名は群馬県長野県境にある「浅間山」にちなんで名づけられた[1][10]

艦歴

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1868年フランスで竣工した[10]。 建造年は文献によって「1865年フランスで建造」[3]、 「1869年フランスハリスで建造」[2]、 「1869年進水」[5] など違いがある。 元はペルー船で艦名「イングランド」であったとも言われている[10]。 『帝国海軍機関史』によると明治元年(1868年頃)に元ペルー人の乗組で横浜港に来港、開拓使が買い入れ北海丸と命名された[6]

1874年

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1874年(明治7年) 4月14日、開拓使所属の北海丸海軍省所属となった[13]。 『聯合艦隊軍艦銘銘伝』によると、7月26日に日本海軍籍に編入された[10]。 7月26日、北海丸は提督府の管轄になり[14]、 7月29日に船番号は第19番[11]、 8月23日に艦位三等に決められた[15]。 10月20日、浅間と改名した[16][4] 1887年(明治20年)までの正式名は浅間艦であるが、ここでは浅間で統一する。 浅間は3等艦とされた[3]

1874年10月28日、浅間は艦隊に編入された[17][16][18]。 11月は25日落成の予定で石川主船寮で修理を行った[19]。 11月31日[注釈 1]浅間は横須賀から品海へ回航した[20]

1875年

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1875年(明治8年) 1月24日、浅間は艦隊から外れ[21]、 練習艦と定められ提督府所轄となった[22]

同年、樺太・千島交換条約調印により、樺太引渡しに際して、大泊に儀礼艦として派遣された[10]。 5月4日に浅間北海道回航とされ、6月3日品川を出港[23]、 10月14日に品川に帰港した[24]

10月28日、日本周辺を東部と西部に分け、東部指揮官には中牟田倉之助少将、西部指揮官には伊東祐麿少将を任命[24]浅間は西部指揮官所轄となった[24]

1876年

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1876年(明治9年) 5月8日、浅間は常備艦となった[25]。 朝鮮への外務大丞宮本小一理事官出張のため[26][27]、 7月3日に浅間江華湾回航を命じられ[28]、 同日横浜港を出港[29]、 7月15日釜山浦に到着、21日厳原に回航し、22日江華湾へ向けて出港した[28]浅間は7月25日に江華湾着、8月29日同地を立ち31日長崎港に到着した[26]。 長崎は9月7日発[30]、 9月20日(午前6時4分[31])、横浜港に帰港した[32][29]

萩の乱

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山口での暴動のため、10月30日(または10月29日[29])に浅間横浜港を出港した[33]。 この時艦長の緒方惟勝少佐が謹慎(閉門)中だったため、日進艦長の伊東祐亨中佐が浅間艦長となり出港した[33]。 11月22日、下関から横浜港に帰港した[34][29]

浅間の船体は航海に不安が出る状況だったため、11月24日に停泊練習艦にするよう申し出があった[35]。このため 12月5日、浅間練習艦に指定[36][37][38]、 以降は、主に砲術、航海練習艦として使用された[10]

1877年 - 1881年

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西南戦争

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1877年(明治10年)に西南戦争が起こった[39]。 2月19日、、日進、浅間の3隻に神戸回航が命令され[40]、 練習艦の富士山浅間雷電の3隻は当分常備艦相当として、警備に当たることになった[39]浅間は2月26日午後6時に横浜港を出港[39]、 2月28日に横須賀港を出港した[29]

6月23日臼杵湾から佐伯湾に回航、24日同地を出港したが天候不順のため猪串に避泊した[41]。 6月27日午後2時20分に猪串を出港し細島に回航した[42]。 同日6時頃に細島に到着したが、陸上には敵がいたためそのまま出港、内之浦へ向かった[42]。 しかし濃霧のために6月28日午前3時20分頃(または3時25分[43])に外浦沖の大島南方で暗礁に乗り上げて[44] 艦底を損傷した[45]。 陸には敵兵がいたために大島に哨兵を派遣し[46]、 報告のために搭載艇1隻を佐伯湾に碇泊する日進へ向かわせた[43]。 満潮になった午後8時頃離礁、11時頃出港して佐賀関を目指した[47]。 浸水が続いたために全員で常に排水を行い、同29日午後9時に佐賀関まで戻って浅州に乗り上げた[47]。 干潮になるにつれ左舷に傾いたため重量物を陸揚げし、ヤードなどで傾斜を防いだ[48]

9月27日戦闘行動終了[29]、 11月9日横須賀港に帰港した[29]

修理

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11月9日(または11月12日[49])より横須賀造船所で修理に従事、1878年(明治11年)中は修理を行った[50]

1878年(明治11年) 2月7日、東海鎮守府所轄の浅間は測量船に指定され[51]、 2月28日、練習艦に変更された[52]。 なお『海軍省報告書』によると2月7日に練習艦とされた[8]。 4月18日、浅間は修復艦に指定された[53][54]

浅間の修理は1881年(明治14年)7月20日に完了した[55]

航海練習艦

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1881年(明治14年)7月23日、造船所所轄修復艦だった浅間は東海鎮守府所轄の航海練習艦に指定された[56]

1882年-1883年

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修理

1882年(明治15年) 12月18日から横須賀造船所で修理を開始した[57]。 12月26日浅間は砲術訓練専門の練習艦となり、マストの桁の全てを撤去した[58]1883年(明治16年)2月16日に修理は完了した[59]

以後

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1891年(明治24年)3月3日除籍[10]。 船体を1892年(明治25年)6月から横須賀水雷隊の練習に供していたが[1]1896年(明治29年)12月に売却された[1]

艦長

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北海丸船長
  • 緒方惟勝 少佐:1874年7月24日[14] -
浅間艦長

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

  • 緒方惟方(惟勝) 少佐:1874年11月31日時[20]、1876年9月1日時[26]
  • 松村正命 少佐:1879年8月19日 - 1880年6月14日
  • 井上良馨 中佐:1880年6月14日 - 1882年8月20日
  • (兼)井上良馨 大佐:1882年10月23日 - 1883年1月11日
  • (心得)吉島辰寧 少佐:1885年4月23日 - 1886年4月12日
  • 吉島辰寧 中佐:1886年4月12日 - 11月22日
  • 東郷平八郎 大佐:1886年11月22日 - 1889年7月1日
  • 杉盛道 大佐:1889年7月1日 - 1889年7月2日
  • 東郷平八郎 大佐:1889年7月2日 - 1890年5月13日

脚注

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注釈

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  1. ^ 実際11月31日は無い。出典のまま。

出典

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  1. ^ a b c d e f g #艦船名考(1928)pp.36-37、浅間
  2. ^ a b c #M1-M9海軍省報告書画像108-109、艦船表(明治9年6月30日現在)
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r #M1-M9海軍省報告書画像60-61、明治七年艦船総数表
  4. ^ a b #M7公文類纂13/名義並番号(1)画像17「北海丸 艦名浅間号ニ被定度此段奉伺候也 十月廿日 事務課 本省御中 正院届及提督府達 公布」。同画像19「北海丸改号御届 当省所管北海丸ノ義浅間艦ト改号仕候間此段御届申上候也 明治七年十月二十日 海軍大輔川村純義 太政大臣三條實美殿」
  5. ^ a b c d e f g h i #Conway(1860-1905)p.232
  6. ^ a b c d e f g #帝国海軍機関史(1975)上巻p.479
  7. ^ #帝国海軍機関史(1975)別冊No.1、「明治維新以前の機関」関係表
  8. ^ a b #M10.7-M11.6海軍省報告書画像23-26、明治11年2月沿革
  9. ^ #海軍制度沿革10-1(1972)pp.1-1、明治18年12月25日(丙72)扶桑外十八艦定員
  10. ^ a b c d e f g h #銘銘伝(2014)pp.70-71、浅間
  11. ^ a b #M7公文類纂13/名義並番号(1)画像9「北海丸船番号之義第十九番ト相定候條此旨為心得相達候事 七月廿九日 海軍省」
  12. ^ #M1-M9海軍省報告書画像41-42、明治6年7月。
  13. ^ #M1-M9海軍省報告書画像51-52、明治7年4月。
  14. ^ a b #M1-M9海軍省報告書画像54-55、明治7年7月。
  15. ^ #M1-M9海軍省報告書画像55-56、明治7年8月。
  16. ^ a b #M1-M9海軍省報告書画像57-58、明治7年10月。
  17. ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.7、明治7年
  18. ^ #M7公文類纂14/艦隊編制画像9、「浅間艦 常備艦隊編入候事 七年十月廿八日」
  19. ^ #M7公文類纂16/修覆(10)画像43
  20. ^ a b #M7公文類纂15/航泊出入(7)画像29、事四套大日記第307号「当艦本日午後三時四十五分横須賀港抜錨午後四時五十八分品海エ着艦候間此段及御届候也 浅間艦々長 緒方少佐 七年十一月三十一日 本省御中」
  21. ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.7、明治8年
  22. ^ #M1-M9海軍省報告書画像61、明治8年1月。
  23. ^ #M1-M9海軍省報告書画像64-66、明治8年5月。
  24. ^ a b c #M1-M9海軍省報告書画像68-70、明治8年10月。
  25. ^ #M1-M9海軍省報告書画像80-81、明治9年5月。
  26. ^ a b c #M9公文類纂11/内乾197浅間長崎着港届画像1
  27. ^ #M9公文類纂11/内乾197浅間長崎着港届画像9
  28. ^ a b #M9.7-M10.6海軍省報告書/沿革画像1-3、明治9年7月
  29. ^ a b c d e f g #S9.12.31恩給叙勲年加算調査(下)/軍艦(4)画像2、舊浅間
  30. ^ #M9公文類纂11/内乾197浅間長崎着港届画像3
  31. ^ #M9公文類纂11/内乾197浅間長崎着港届画像5
  32. ^ #M9.7-M10.6海軍省報告書/沿革画像4-7、明治9年9月
  33. ^ a b #M9.7-M10.6海軍省報告書/沿革画像7-11、明治9年10月
  34. ^ #M9.7-M10.6海軍省報告書/沿革画像11-13、明治9年11月
  35. ^ #M9公文類纂11/浅間練習艦被定度画像1「浅間艦義漸次艦體相弱リ是迄修復ヲ加ヘ朝鮮或ハ九州辺江為す致航海候得共暴風ニ臨ミ甚懸念ニ候間最早航海ハ被差止富士山艦同様横濱或ハ横須賀浦賀等江碇泊練習艦江被定度此段申出仕候也」
  36. ^ #M9.7-M10.6海軍省報告書/沿革画像13-16、明治9年12月
  37. ^ #M9公文類纂11/浅間練習艦被定度画像7「東海鎮守府 其府所轄浅間艦義之義自今練習艦ト被定候事」
  38. ^ #M9布達/12月画像6、明治9年12月5日丙第67号
  39. ^ a b c #M9.7-M10.6海軍省報告書/沿革画像20-24、明治10年2月
  40. ^ #M10公文類纂11/東日進浅間神戸回艦画像1
  41. ^ #M9-M11本省公文拾遺1/浅間破損画像17
  42. ^ a b #M9-M11本省公文拾遺1/浅間破損画像18
  43. ^ a b #M9-M11本省公文拾遺1/浅間破損画像11
  44. ^ #M9-M11本省公文拾遺1/浅間破損画像18-19
  45. ^ #M9-M11本省公文拾遺1/浅間破損画像1、3、電報
  46. ^ #M9-M11本省公文拾遺1/浅間破損画像19
  47. ^ a b #M9-M11本省公文拾遺1/浅間破損画像20
  48. ^ #M9-M11本省公文拾遺1/浅間破損画像7-8、浅第675号
  49. ^ #M12.7-M13.6海軍省報告書画像20-21、艦船修復
  50. ^ #M11.7-M12.6海軍省報告書画像36、浅間艦航泊表
  51. ^ #M11布達/2月画像6、明治11年2月7日丙第26号
  52. ^ #M11布達/2月画像43-45、明治11年2月28日丙第34号
  53. ^ #M10.7-M11.6海軍省報告書画像28-30、明治11年4月沿革
  54. ^ #M11布達/4月画像5、明治11年4月19日丙第58号
  55. ^ #M14.7-M15.6海軍省報告書画像21-23、部内艦船修復
  56. ^ #M14.7-M15.6海軍省報告書画像18、艦船所轄並在任附改称及等級
  57. ^ #M15.7-12海軍省報告書画像17、部内艦船修復
  58. ^ #M15.7-12海軍省報告書画像21
  59. ^ #M16海軍省報告書画像21、艦船修理

参考文献

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  • アジア歴史資料センター(公式)(国立公文書館、防衛省防衛研究所)
    • 『記録材料・海軍省報告書第一』。Ref.A07062089000。 (国立公文書館)
    • 『記録材料・海軍省報告書/第一 沿革』。Ref.A07062089300。 (国立公文書館)
    • 『記録材料・海軍省報告書』。Ref.A07062091300。 (国立公文書館)
    • 『記録材料・海軍省報告書』。Ref.A07062091500。 (国立公文書館)
    • 『記録材料・海軍省報告書』。Ref.A07062091700。 (国立公文書館)
    • 『記録材料・海軍省報告書』。Ref.A07062092100。 (国立公文書館)
    • 『記録材料・海軍省報告書』。Ref.A07062092300。 (国立公文書館)
    • 『記録材料・海軍省報告書』。Ref.A07062092500。 (国立公文書館)
    • 『恩給叙勲年加算調査 下巻 除籍艦艇 船舶及特務艇 昭和9年12月31日/除籍艦艇/軍艦(4)』。Ref.C14010005800。 
    • 「名義並番号(1)」『公文類纂 明治7年 巻13 本省公文 艦船部1』、Ref.C09112102200。 
    • 「艦隊編制」『公文類纂 明治7年 巻14 本省公文 艦船部2』、Ref.C09112103800。 
    • 「航泊出入(6)」『公文類纂 明治7年 巻15 本省公文 艦船部3』、Ref.C09112104800。 
    • 「航泊出入(7)」『公文類纂 明治7年 巻15 本省公文 艦船部3』、Ref.C09112104900。 
    • 「修覆(10)」『公文類纂 明治7年 巻16 本省公文 艦船部4止』、Ref.C09112106200。 
    • 「徃入745 浅間艦の名義を練習艦に被定度件東海鎮守府申出」『公文類纂 明治9年 巻11 本省公文 艦船部』、Ref.C09112167400。 
    • 「内乾197 浅間艦朝鮮より着港の件長崎出張所届」『公文類纂 明治9年 巻11 本省公文 艦船部』、Ref.C09112167700。 
    • 『公文類纂 明治10年 前編 巻11 本省公文 艦船部1/無号 東艦日進艦 浅間艦神戸回艦の件東海鎮守府へ達』。Ref.C09112318700。 
    • 「往入220の17 浅間艦暗礁へ乗り掛け破損の件東海鎮守府届」『拾遺1 本省公文 自明治9年至同11年』、Ref.C09112274700。 
    • 『明治9年 海軍省布達全書/12月』。Ref.C12070001800。 
    • 『明治11年 海軍省布達全書/2月』。Ref.C12070003800。 
    • 『明治11年 海軍省布達全書/4月』。Ref.C12070004000。 
  • Rober Gardiner, Roger Chesneau, Eugene Kolesnik ed. (1979). Conway's All The World's Fighting Ships, 1860-1905. (first American ed.). Mayflower Books. ISBN 0-8317-0302-4 
  • 浅井将秀/編『日本海軍艦船名考』東京水交社、1928年12月。 
  • 海軍省/編『海軍制度沿革 巻四の1』 明治百年史叢書 第175巻、原書房、1971年11月(原著1939年)。 
  • 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。 
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』普及版、光人社、2003年。
    • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝<普及版> 全八六〇余隻の栄光と悲劇』潮書房光人社、2014年4月(原著1993年)。ISBN 978-4-7698-1565-5 
  • 日本舶用機関史編集委員会/編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。 
  • 官報

関連項目

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