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洞院実清

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
洞院実清
時代 南北朝時代
生誕 不詳
死没 正平14年/延文4年(1359年)8月?
別名 冷泉実清
官位 大納言南朝
主君 後醍醐天皇後村上天皇
氏族 洞院家
父母 父:洞院公敏、母:正親町三条公貫の娘
兄弟 実清、実遍、慈静、尊玄、大納言局ら
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洞院 実清(とういん さねきよ)は、南北朝時代公卿冷泉実清とも。権大納言洞院公敏の子。官位大納言南朝に仕えた。

経歴

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後醍醐天皇の忠臣である父・公敏が元弘の乱に坐して出家したため、これを継いで南朝に参仕した。『尊卑分脈』の尻付には「左中将正四下、参南朝」とだけ記されているから、公卿としての官途は南朝における叙任と考えられよう。正平6年/観応2年(1351年正平一統時には権中納言であり[1]、翌正平7年(1352年)正月の叙位従二位に昇叙[2]。同年5月八幡の戦いで敗れて男山が陥落した際、洞院実世四条隆俊らと共に河内国東条へ落ち延びている[3]

正平8年/文和2年(1353年賀名生で催された『内裏千首』に詠進。正平9年/文和3年(1354年)12月には既に大納言へ進んでいたが[4]、その後の消息は不明である。正平14年/延文4年(1359年)8月の筑後川の戦い懐良親王に従軍して討死した「洞院権大納言」[5]とはあるいは実清のことかと思われるが、確証はない。和歌は、『新葉和歌集』に2首入集する。

脚注

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  1. ^ 園太暦』正平6年12月26日条、『敦有卿記』同年12月28日条
  2. ^ 『園太暦』正平7年正月5日条
  3. ^ 『園太暦』正平7年5月19日条裏書
  4. ^ 『敦有卿記』文和3年12月24日条
  5. ^ 太平記』巻33「菊池合戦事」。『参考太平記』には金勝院本を引いて、「洞院権大納言」の名を親弘と注するが、洞院家にこのような名の人物は見出せない。

参考文献

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