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河合弘道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
河合弘道
かわい ひろみち
生年月日 1907年11月3日
出生地 鳥取県西伯郡米子町
(現:米子市
没年月日 (1991-12-15) 1991年12月15日(84歳没)
出身校 日本大学
称号 米子市名誉市民(1987年)[1]
勲三等瑞宝章(1983年)[1]
配偶者 妻・河合愛子

米子市長
当選回数 5回
在任期間 1963年4月 - 1983年4月
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河合 弘道(かわい ひろみち、1907年明治40年)11月3日[1] - 1991年平成3年)12月15日[1][2])は日本政治家鳥取県米子市長(5期)、金光教米子教会長。

経歴

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鳥取県西伯郡米子町(現在の米子市道笑町に生まれる[3]

明道校から米子中学校(現在の米子東高校)へ進学する[3]

1931年昭和6年)日本大学社会学科卒業[1][4]。同大学社会学研究室助手となり、やがて講師、次いで1938年(昭和13年)予科の教授となる[3]

1946年(昭和21年)故郷米子に帰り[3]金光教米子教会長に就任[5]

戦後のすさんだ人々の心を導くと共に、社会教育の振興に取り組んだ[6]。中でもボーイスカウトの再建、児童福祉施設わかば園の経営などの活動を通じて、次第に市政の在り方に関心を寄せ、彼を囲む市民の幅広い支持を得て、1963年(昭和38年)市長選に立候補し当選[1]1983年(昭和58年)4月までの5期20年に亘る長期間在職した[1][6]

市長の座を退いた後は、再び金光教布教に力を尽くした。

人物像

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趣味は読書、講演[5]。住所は米子市加茂町[5]

家族・親族

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河合家

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岡山県井原市芳井町鳥取県米子市
河合家は祖父・嘉藤次が岡山県後月郡川相村(現在の井原市芳井町)から米子に移住、金光教米子教会の初代教会長に就任、父・四郎一が二代教会長を勤め、一家をあげて人の世に尽くす志が厚かった[3]
明治45年(1912年)3月生[5]
昭和17年(1942年)3月生[5]

著書

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  • ルネ・モーニエ、社会学入門(訳)[4]
  • セ・ブーグレ、価値社会学(訳)[4]
  • ルネ・モーニエ、植民社会学(訳)[4]
  • 日本精神史稿、日本社会学原理、その他[4]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『新日本人物大観』(鳥取県版、1958年)には「東京都千代田区三年町、森田千代子の姉」とある。

出典

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  1. ^ a b c d e f g 『現代政治家人名事典』137頁。
  2. ^ 『現代物故者事典1991~1993』日外アソシエーツ、1994年、189頁。
  3. ^ a b c d e 『勝田ヶ丘の人物誌』418頁。
  4. ^ a b c d e 『新日本人物大観』(鳥取県版)カ109頁。
  5. ^ a b c d e f g h i j k 第廿一版 人事興信録 』か一六七頁。
  6. ^ a b 『勝田ヶ丘の人物誌』419頁。
  7. ^ 『鳥取県人名録』企画・編集 鳥取県人名録刊行委員会 旬刊政経レポート、1987年、188頁。

参考文献

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  • 『新日本人物大観』(鳥取県版)1958年。
  • 第廿一版 人事興信録 』人事興信所、1961年。
  • 『現代政治家人名事典』日外アソシエーツ、1999年。
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』編集・勝田ヶ丘の人物誌編集委員会、発行・鳥取県立米子東高等学校創立百周年記念事業実行委員会 、2000年。418-420頁

関連項目

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外部リンク

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