沙淦
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沙淦 | |
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プロフィール | |
出生: | 1885年 |
死去: |
1913年(民国2年)7月10日![]() |
出身地: |
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職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 沙淦 |
簡体字: | 沙淦 |
拼音: | Shā Gàn |
ラテン字: | Sha Kan |
和名表記: | さ かん |
発音転記: | シャー ガン |
沙 淦(さ かん)は、清末民初の革命家。字は宝琛。別号は憤憤。
事跡
[編集]12歳で通州第一高等小学に入学したが、13歳のときに弁髪を切り、革命の道を志すようになる。中学を卒業後に日本へ留学し、成城学校などで学んだ。日本滞在中に、孫文(孫中山)の中国同盟会創設準備に関与し、創設時の構成員ともなった。
1911年(宣統3年)の帰国後は、ジャーナリストの道を歩みつつ革命の準備を進める。一時は清の官憲に逮捕される危機もあったが、革命派人士である趙声に救出され、後に上海に赴き、革命工作に引き続き従事した。同年10月、武昌起義が勃発、辛亥革命が開始される。沙淦は陳其美らとともに決死隊を組織し、上海製造局を攻撃するなどした。上海が革命派により掌握されると、沙は都督府参謀に任ぜられている。
中華民国成立後、沙淦は江亢虎率いる中国社会党に加入し、総部庶務幹事をつとめる。しかし江は次第に袁世凱に接近する姿勢を見せたため、沙は中国社会党を離脱し、別に社会党(純粋社会党とも呼ばれる)を結成した。沙は陳其美らとともに上海の出版界で活動し、袁を非難する『土皇帝』という書を著している。
1913年(民国2年)に第二革命(二次革命)が勃発すると、沙淦は地元周辺で資金募集の活動に従事している。ところが、故郷の南通に戻ったところで袁世凱に味方する勢力により捕縛、殺害されてしまった。享年29。
参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 「沙淦烈士紀念碑」「南通旅遊」(欣欣旅遊網)
- 謝彬『民国政党史』1924年(中華書局版、2007年、ISBN 978-7-101-05531-3)