池田由成
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長10年(1605年) |
死没 | 延宝4年1月8日(1676年2月21日) |
改名 | 幼名竹松、通称主計、出羽 |
墓所 | 天城池田家墓所(岡山県倉敷市) |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 備前岡山藩 |
氏族 | 池田氏、天城池田家 |
父母 | 池田由之、即心院(万姫・阿波徳島藩主蜂須賀家政の娘) |
兄弟 | 由成、由英(蜂須賀玄寅)、忠義、之政、竹子(津守国貞室) |
妻 | 正室:団氏 |
子 | 由貞、由有、由孝、千子(池田直長室)、百子(岡田元昌室)、夏子(池田信成室)、益子(栗津元房室)、熊子(大石良昭室) |
池田 由成(いけだ よしなり)は、江戸時代初期の備前岡山藩池田氏の家臣。天城池田家2代当主。
生涯
[編集]慶長10年(1605年)池田家家老・池田由之の子として生まれる。元和元年(1615年)幕府の証人として江戸に下向し、江戸城で将軍・徳川秀忠に拝謁する。元和4年(1618年)に父・由之が殺害されると、かわりに米子城3万2,000石と「出羽」の名を相続して、池田光政に家老として仕えた。
元和9年(1623年)7月、藩主光政が将軍・家光に従い上洛した際に供をする。寛永5年(1628年)、藩主・光政と大御所・秀忠の養女・勝子(本多忠刻の娘)の婚礼の際に御礼使として江戸に下り、江戸城で将軍・家光に拝謁する。寛永9年(1632年)には藩主・光政が因幡鳥取藩から備前岡山藩へと移封されたので、由成も備前国下津井城主に転じた。その後、一国一城令でこの城が破却されたので、天城に陣屋を設けてそこに移った。慶安2年(1650年)、藩主・光政の娘・輝子と一条教輔の婚礼のため上京する。
寛文8年(1668年)7月1日に隠居して三男の由孝に跡を譲った。門閥家老として津田永忠等と対立し、光政に疎まれ隠居を命じられたためである。その後は天城で余生を送る。延宝4年(1676年)1月8日に死去。享年72。墓所は天城池田家墓所(岡山県倉敷市)。
なお、赤穂藩家臣の大石良昭に嫁いだ娘の熊子は、赤穂事件で知られる大石良雄を生んだ。