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池田宗政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
池田 宗政
時代 江戸時代中期
生誕 享保12年6月24日1727年8月11日
死没 宝暦14年3月14日1764年4月14日
改名 幼名:峯千代、茂太郎、初名:尚政→宗政
別名 燕々子(号)
戒名 寿国院殿豊山延祥大居士
墓所 岡山県岡山市中区円山の曹源寺
官位 従四位下、伊予侍従
幕府 江戸幕府
主君 徳川家重家治
備前岡山藩
氏族 池田氏
父母 父:池田継政、母:村子(伊達吉村次女)
兄弟 宗政政喬
正室:藤子黒田継高長女)
治政相良長寛、久子(榊原政敦正室)
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池田 宗政(いけだ むねまさ)は、備前岡山藩の第4代藩主。岡山藩池田家宗家6代。

生涯

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第3代藩主・池田継政の長男。母は伊達吉村の次女・村子(心定院)。幼名は峯千代、茂太郎。

幼少期より水戸の鶴千代(徳川宗翰)、加賀の勝丸(前田宗辰)、出雲の幸千代(松平宗衍)と共に四君子と称され、聡明で知られた。元文5年(1740年)に元服する。初名は尚政(なおまさ)、のちに将軍徳川吉宗より偏諱を受け宗政に改名する。宝暦2年(1752年)12月6日、父の隠居により跡を継いだ。

岡山藩藩学の充実に努めており、また自身は書画に優れ作品を残しているほか、俳諧や和歌もなした。宗政は信仰していた餘慶寺瀬戸内市邑久町北島)に正室藤子の打掛法衣にして寄進している。宝暦14年(1764年)3月14日、父に先立って38歳で病死した。跡を長男の治政が継いだ。

曹源寺の宗政夫妻の墓。右が宗政の墓。