池田喜通
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 文政11年6月21日(1828年8月1日) |
死没 | 慶応4年7月10日(1868年8月27日) |
別名 | 兵部、弾正、但馬守 |
墓所 | 兵庫県神河町福本の徹心寺 |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 徳川家斉、家慶、家定、家茂、慶喜 |
藩 | 播磨福本藩主 |
氏族 | 池田氏(輝澄流) |
父母 | 池田喜長 |
兄弟 | 喜通、政和 |
妻 | 池田道一娘、奥平昌高娘フチ |
子 | 徳潤 |
池田 喜通(いけだ よしみち)は、江戸時代後期の寄合旗本、大名。播磨国福本藩主。
来歴
[編集]文政11年6月21日(1828年8月1日)、福本を知行する交代寄合6000石の6代当主・池田喜長の子として誕生。
天保7年(1836年)9月に家督を継いで交代寄合となる。安政2年(1855年)に領校「乾々館」を開き、文久3年(1863年)の生野の変鎮圧や元治元年(1864年)の第一次長州征討に参加して功績を挙げている。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、新政府軍に協力して姫路藩攻めに参加した。
慶応4年(1868年)6月20日、本家の因幡国鳥取藩から蔵米3500石を与えられたことで、石高直しにより都合1万573石となったため大名に列した。しかし直後の7月10日に死去した。享年41。跡を子の喜延(徳潤)が継いだ。