水野勝貞
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水野勝貞 | |
時代 | 江戸時代前期 |
生誕 | 寛永2年6月28日(1625年8月1日) |
死没 | 寛文2年10月29日(1662年12月9日) |
改名 | 伊織(幼名)、勝貞 |
別名 | 藤十郎(通称)、勝春、勝秀 |
戒名 | 源光院殿前日刕太守傑山宗英大居士 |
墓所 | 広島県福山市若松町の水野家菩提寺の曹洞宗賢忠寺 |
官位 | 従四位下・日向守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家綱 |
藩 | 備後福山藩主 |
氏族 | 水野氏 |
父母 | 父:水野勝俊、母:不詳 |
兄弟 | 勝貞、勝清、園基福継室ら |
妻 |
正室:酒井忠勝の養女 側室:瀬尾氏 |
子 | 鶴、与曽、勝種 |
水野 勝貞(みずの かつさだ)は、備後国福山藩の第3代藩主。水野宗家3代。第2代藩主・水野勝俊の次男。
経歴
[編集]備後国鞆で、第2代藩主・勝俊の嫡男として生まれる。14歳のとき島原の乱に参戦し、帰陣後の寛永16年(1639年)に徳川家光に御目見する。翌17年(1640年)、従五位下に任官し、備後守を名乗る。承応4年(1655年)、勝俊の病死により31歳で家督を継ぐ。同年(改元され明暦元年)徳川家綱に御目見して従四位下に任官、日向守と改める。祖父・勝成の日向守に対し、「後日向守」とも呼ばれる。
勝成、勝俊に続き、主に領内の寺院を保護し、福山城下の円光寺を深津郡草戸村(現在の福山市草戸町)の古刹・常福寺に合併させ、寺名を明王院と改めた。文芸の興隆にも努め、京都から俳人野々口立圃を呼び、多くの門人を輩出させたり、城下の寺院でたびたび芝居を催したという。また、草戸稲荷神社前には遊女町を造ったといわれる。
寛文元年(1661年)に病に伏し、翌年(1662年)に江戸藩邸において38歳で死去した。
藩政においては、生え抜きの藩士を積極的に登用しているが、勝貞の死後、家老・上田玄蕃ら門閥派の巻き返しにより、勝貞に重用された猪熊三右衛門ら側近5人が殉死に追い込まれる事態となった。この御家騒動(水野家家中騒動)に家中は激しく動揺したといわれ、城下の惣堂神社が「惣堂(そうどう)→騒動」に繋がるとして延広神社に改称されたという。
系譜
[編集]父母
- 水野勝俊(父)
- 月岡氏 ー 側室(母)
正室
側室
- 野瀬氏
子女
外部リンク
[編集]- 福山城(福山城博物館)
- 備後歴史探訪倶楽部特別版「福山城」 - ウェイバックマシン(2005年4月7日アーカイブ分)