水町百窓
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みずまち ひゃくそう 水町 百窓 | |
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生誕 |
藤井秀雄 1907年8月10日 ![]() |
死没 | 1978年秋以降 |
死因 | 脳血栓 |
職業 | 詩人、俳人 |
水町 百窓(みずまち ひゃくそう、1907年〈明治40年〉8月10日 - 1978年〈昭和53年〉秋以降)は、日本の詩人、俳人。本名は、藤井 秀雄。
経歴
[編集]昭和初期、神戸の貿易会社に勤める傍ら佐藤惣之助主宰の詩誌『詩之家』の同人となり、『生活の一章』(詩之家出版部、1932年)や『自画像』(詩之家編輯部、1933年)と言ったモダニズム詩集を出す。『詩之家』の同人であった山下豊次郎、高木真弓(拓川)、大庭郁二らと詩誌『詩短冊』を出して水町が主宰する(1931年6月、『線』と改題)[2]。また、『詩之家』の同人となる以前は池永治雄、能登重夫、天野隆一らの詩誌『詩章』に参加していた[3]。京都の詩誌『青樹』(1932年、『麵麭』と改題するが1934年に再び『青樹』に戻し1937年廃刊)に参加していた時期もある[4]。
戦後、大阪の田辺製薬に勤める[3]。その後、俳句に転じ、前述の山下と共に本名で久保田万太郎の主宰する俳誌『春燈』に所属する[3]。『句集羇旅』(春燈社、1970年)がある。1978年秋以降、脳血栓で死去した[注釈 1]。享年71歳[3]。
詩風
[編集]『生活の一章』(詩之家出版部、1932年10月)の装幀を古賀春江が担当しているが、水町の詩風も古賀の絵と通じるものがあり、藤田三郎は「まるで古賀春江の絵のような詩である。どちらにも共通したポエジーがある。かれの合理主義は、情緒も意志も物質的に還元・構成し、独自な詩的風景を造型するところにあった。」と述べている[2]。
著作
[編集]詩集
[編集]- 水町百窓『生活の一章』 詩之家出版部、1932年10月15日
- 水町百窓『自画像』 詩之家編輯部、1933年8月
句集
[編集]- 藤井秀雄『句集羇旅』 春燈社、1970年
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 水町の追悼文が載った『詩の家No.69〈通刊147号〉』(詩の家、1979年1月)には肝心の水町が死去した日が載っていない。ただ、「享年71歳」と書かれているので少なくとも1978年8月10日以降に死去したことが判る。この号が発行されたのが1979年1月なので、便宜上、死去した時期を1978年秋以降とした。
出典
[編集]参考文献
[編集]雑誌
[編集]- 兼松信夫「水町百窓君を悼む」 『詩の家No.69〈通刊147号〉』(詩の家、1979年1月)pp.21-22
- 藤田三郎「白の喪章〈水町百窓君を悼む〉」 『詩の家No.69〈通刊147号〉』(詩の家、1979年1月)pp.22-23
ウェブサイト
[編集]- 「天野隆一(大虹)と関西の詩人たち」 『高橋輝次の古書往来』第35回 2025年2月23日閲覧
- 「白い人=水町百窓 (名前の由来など)」 ブログ『百窓文庫』2013年11月17日投稿 2025年2月25日閲覧