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水島丸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

水島丸(みずしままる)は、鉄道省(後の日本国有鉄道宇高航路に在籍した客船。

船名の「水島」は、岡山県の地名(現倉敷市水島)に由来する[要出典]

輸送需要が「玉藻丸」、「児島丸」の2隻ではさばききれなくなったことから建造された船である[1]。「玉藻丸」に似た外観を有し、若干大型化している[2]

総トン数321.78トン、長さ125.00フィート、幅25.00フィート、深さ11.00フィート[3]。主機は三連成往復動汽機2基、汽缶は船用スコッチ型1基で[4]、航海速力11.20ノット[5]

前部最上甲板に一等客室、上甲板と下層甲板窓際に二等客室、後部上甲板と下層甲板に三等客室を有した[2]。一等客室は1919年に廃止され、以後は特別室とされた[2]。山陽丸型の就航後、それらとの定員や手荷物輸送能力の差を是正するため1923年から1925年にかけて3度の改装が行われた[4]。この改装で、遊歩甲板前部にベランダと二等客室、後部に三等客室が追加された[4]。また、運搬車7両を格納可能となり、1930年には積載数が22両に、1935年には26両に拡大された[4]

旅客定員は以下のように変わっている[4]

  • 1917年:一等10、二等69、三等414
  • 1919年:二等79、三等414
  • 1924年:二等128、三等669
  • 1932年:二等68、三等816
  • 1934年:二等68、三等776
  • 1935年:二等68、三等816
  • 1936年:二等71、三等799

大阪鉄工所で建造[5]。1917年3月進水[6]。5月11日竣工[7]。5月15日就航[7]

1935年2月23日、「虎丸」と接触[8]。1936年2月1日、加茂の瀬戸付近で底触[9]。1937年3月22日、「第二寿丸」と衝突[9]。1942年2月23日、高松港口付近で「大里丸」(19トン)と衝突[10]。3月5日、荒神島北東端の約700m沖で擱座[11]。8月3日、高松港口の北北西約1000mで「松風丸」と衝突[11]。1943年4月6日、直島水道南口で座礁[12]

1943年10月、東畑・浜田・温泉津・波根間で臨時運行される[12]

11月25日、直島水道北部で「三徳丸」(20トン)と衝突し、「三徳丸」は沈没した[13]。1944年2月11日、獅子渡鼻付近で「勢吉丸」と接触[14]

1945年7月24日、米軍機の銃撃を受けて死者3名を出した[15]

1946年6月30日から7月25日まで仁方・堀江間航路で運航される[16]

1947年8月20日、仁方・堀江間航路に転属[17]

1953年3月9日、瀬戸内海連絡急行汽船に売却[4]

参考文献

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  • 萩原幹生(編著)『宇高連絡船78年の歩み』成山堂書店、2000年、ISBN 4-425-92331-6
  • 『宇高航路50年史』日本国有鉄道四国支社宇高船舶管理部、1961年

脚注

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  1. ^ 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』108-109ページ
  2. ^ a b c 『宇高航路50年史』45ページ
  3. ^ 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』336-337ページ
  4. ^ a b c d e f 『宇高航路50年史』46ページ
  5. ^ a b 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』337ページ
  6. ^ 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』336ページ
  7. ^ a b 『宇高航路50年史』261ページ
  8. ^ 『宇高航路50年史』267ページ
  9. ^ a b 『宇高航路50年史』268ページ
  10. ^ 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』277ページ
  11. ^ a b 『宇高航路50年史』270ページ
  12. ^ a b 『宇高航路50年史』271ページ
  13. ^ 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』278-279ページ
  14. ^ 『宇高航路50年史』272ページ
  15. ^ 『宇高航路50年史』273ページ
  16. ^ 『宇高航路50年史』274ページ
  17. ^ 『宇高航路50年史』275ページ