毛利吉盛
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毛利 吉盛(もうり よしもり、天保5年11月29日(1834年12月29日) - 1877年)は、江戸時代の土佐藩士、致道館剣道導役。小目付。官位は弾正少忠、侍従。通称は毛利恭助、毛利荒次郎。
来歴
[編集]生い立ち
[編集]天保5年(1834年)11月29日、土佐藩士(御馬廻役・250石)毛利吉厚(源八郎)の二男として生まれる。先祖は旧豊臣家臣で豊前小倉城主・毛利勝信(壱岐守)の弟・毛利吉雄(出羽守)。
麻田直養(勘七)に小野派一刀流剣術を学ぶ[1]。安政年中に江戸へ遊学し、北辰一刀流の玄武館へ入門[2]した。
剣術指南役
[編集]文久元年(1861年)、大坂住吉陣営にて剣術指南役を任ぜられる。
文久3年(1863年)、小目付役(小監察)に任ぜられる。
薩土討幕の密約
[編集]慶応3年(1867年)5月21日、中岡慎太郎の仲介により薩摩藩士・小松帯刀邸にて、土佐藩の乾退助、谷守部、中岡慎太郎らと共に、薩摩藩の西郷吉之助、吉井幸輔、小松帯刀らが会談し、薩土密約を結んだ。
近江屋事件
[編集]11月15日に、坂本龍馬、中岡慎太郎が暗殺された(近江屋事件)為、11月21日、中村半次郎の案内により、谷守部とともに伏見の薩摩藩邸を訪れて御陵衛士・阿部十郎に会った。阿部は谷が中岡から聞いた犯人の声色を伝えられ、犯人は新選組・原田左之助ではないかという回答をしている[3]。
明治維新以降
[編集]明治元年(1868年)、京都留守居役に任ぜられる。
明治2年(1869年)3月、雲井龍雄から出羽米沢藩士・甘粕継成の紹介状を受け取り、甘粕が新政府へ出仕するきっかけを作った。
明治政府では、静岡県参事を勤める。
明治10年(1877年)頃に病歿したといわれる。
家族
[編集]- 父:毛利吉厚(源八郎)
- 兄:毛利吉貴(新平)
- 本人:毛利吉盛(恭助)