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残夢

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残夢(ざんむ、生年不詳 - 天正4年3月29日1576年4月27日)?)は、日本僧侶は桃林契悟禅師。『会津風土記』によると、天正4年3月29日1576年4月27日)に入寂した後に、文禄年間に越後国で商人に目撃されたり、保科正之駿河国三保松原源平合戦について語り合ったりしているため、正確な没年は不詳。

別名

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林羅山の『本朝神社考』によると、自らを呼白秋風道人と称したという。保科正之の『会津風土記』では秋風道人ではなく秋草道士とされる。

相原友直の『平泉雑記』「残夢カ伝」には「常陸房海存ガ仙人トナリ残夢ト名ヲ改テ平泉ヘ折々往來スル」とあり、海尊と同一人物とする説が紹介されている[1]

山本北山が編纂し、嘉永3年(1850年)に出版された『孝経棲漫筆[2]』には、残月という名前で残夢の伝承が伝わっている。

山崎美成千賀春城が編纂し、天保13年(1842年)に出版された『名家略伝[3]』によれば、宝山と号したという。

宮地巌夫昭和3年(1928年)に刊行した『本朝神仙記伝』では日白と名乗ったとされるが、『本朝神社考』の呼白との関連性や、宮地が何の資料を元に日白を残夢の別名としたかは不明[4]

人物

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臨済宗の僧侶で、奇行に富む人物として知られる[5]。『会津風土記』や『本朝高僧伝』巻四四「常州福泉寺沙門残夢伝」によると、永禄年間に関東に来て、常陸福泉寺那須雲巌寺に3度住んだのちに会津実相寺に住したという[注釈 1][注釈 2]。実相寺では臨済宗幻住派の雪村と交流していたとされる[6][7]

『本朝神社考』

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林羅山の『本朝神社考都良香条によると、残夢の概要については以下の通りとされる。

近頃〔ママ〕(『本朝神社考』が編纂された頃=寛永15年(1638年)から正保2年(1645年)?)、人々が奥州に残夢という人物がいると噂していた。残夢は自らを呼白秋風道人と称した。僧侶のようであり僧侶のようでなく、俗人のようで俗人でなく、精神状態が普通の人とは異なっていた。本人は「一休と友人となり禅の教えを受けた」と語ったり、源平合戦について時々人と話し合ったりしたという。その内容は「源義経はあの時こういう働きをし、弁慶はこの時こういう働きをした、平氏と誰彼が戦った」といったものであり、語りぶりは自らそれを見てきたかのようであった。人々は怪しんで「どこでそれを知ったのか」と尋ねても、残夢は「忘れた」と言うばかりであった。天海や松雪(詳細は不明だが、李氏朝鮮出身の僧侶とする説や亀井重清とする説がある)といった僧侶が残夢にあった時には、「杓杞(クコ、ナス科の植物で食用・薬用として活用されていた)飯」を好んで食べていた。天海はこれを見て、後に人に「残夢が長生きなのは杓杞を食べているからだ」と述べたとされる。周囲の人々は、残夢を怪しみ、常陸坊海尊その人なのではないかと疑ったという。そして天海は、人より送られた杓杞を菜飯として食べるようになり、「何事にも急がず、心の思うままに生き、緩々漫々と生きることこそが長寿の秘訣である」と語ったという[注釈 3]

『会津風土記』

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保科正之が編纂した『会津風土記』には、『本朝神社考』にはない残務についての情報が記されている。

『会津風土記』によると、実相寺の22世住職であり、別名を桃林契悟禪師といったという。そして、残夢は様々な場所を転々としており、那須雲巌寺に3度住んだのちに、天文年間に会津へと来たとされる。ある時、蘆名四天王佐瀬氏無無[注釈 4]という人物が残夢の元に訪れたところ、残夢は無無を「なしなしと いふもいつはり きてみれば あればこそあれ もとのすがたで」と詠んだ。それに無無は「なしなしと いふもことはり わがすがた あることなきの はじめなりけれ」と返歌した。残夢は「曽我兄弟の仇討ち以来の再会だな」と言い、無無は頷いたという。

また、『本朝神社考』に無い話として、

  • 檀越が請えば1日に何度も訪れた。
  • 連日食事をしなくても飢える様子が無かった。
  • 年が経っても服を改めなかったり、新しい服にわざわざ古い服の虱を移してから着たりした。
  • 金庫に銭を入れていたが、盗人がその中から銭を盗もうとしている際に、別の場所にいた残夢が、侍者に「銭を盗人に与えてこい」といい、侍者が見に行ったところ、残夢の言う通り盗人がいた。侍者は盗人に「銭を与えれば庫の壁を穿つ必要はないだろう」と言うと、盗人は恥じて去っていった。これを残夢に伝えると怒り、「なぜ銭を与えなかったのか。」と述べた。
  • 昔、会津に鏡を磨く「福仙」という仙人がいた。人々が福仙を雇うと、賃金が発生するのにもかかわらず笑いながらおしゃべりをするだけで1日が終わり、しかも鏡を磨いたとしても技術は良くなかった。人が福仙に鏡を磨いた年月を尋ねれば古いことが明らかであった。それなのになぜこのように拙い技術なのかというと、福仙の心の中に磨くということは意識されていないからであった。残夢はそんな福仙を見て、「福仙は源義経の旗持人である」と言い、福仙は残夢を見て「残夢は常陸坊海尊である」と言った。
  • 牛ガ墓村[注釈 5]の舜岳ガ塚[注釈 6]は、自然と燃えて数ヶ月が経っていた。人々はこれを不思議に思っていたところ、残夢が香を焚き偈(『会津旧事雑考』によれば「光明無業 元無明光」[8])を唱えた途端に、忽ち火が消えた。
  • 暴雨・迅雷・鬼火が車に乗って、棺を奪って去ろうとした。残夢は「勘弁してくれ」と頼んだが、鬼達はこれを拒んだため、「拒むならば行け」と言ったところ、鬼達は忽ち消え、天は晴れ渡った。
  • 天正4年(1576年)3月29日、一室に人を集め、牌上に自ら日付や名前を記し、伽陀「無間ニ堕在シ五逆雷ヲ聞ク喝下ノ瞎驢死眼豁開」を書き終わると筆をなげうち、自ら棺に入って入寂した。しかし、文禄年間に、残夢の棺を入れた穴を掘り起こして見てみると、棺の中は空であった。その後、とある商人が越後国で残夢を見たという。また、保科正之三保松原で残夢に会い、源平合戦について話をしたともいう。
  • 残夢は「今、私と同じ視点に立てる者はいない。私の言葉を真実と証明する方法はない。だが、源義経は醜男で、弁慶はイケメンであった。つまり、世の中で言われる美醜は相違うものなのである。世の中にはこのような例が山ほどある。故に語り切ることはできない」と述べた。

といったものがある[注釈 7]

『千草日記』

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天和3年(1683年)3月に江戸から東海道を旅した大森固庵による紀行『千草日記』の3月14日条には、天正年間に残夢が三保の松原にいた話が記録されている[9][注釈 8]

『本朝高僧伝』

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卍元師蛮元禄15年(1702年)に完成させた『本朝高僧伝』巻四四「常州福泉寺沙門残夢伝」によると、残夢は永禄年間に関東地方を遊説し、常陸国福泉寺に住んだという[注釈 9]

『会津旧事雑考』

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保科正之の命によって寛文12年(1673年)6月に向井吉重によって編纂された『会津旧事雑考』によれば、人々が残夢に年齢を尋ねたところ、150.160歳であると答えたという[8]

『小窓雑筆』

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萩原宗固著作の『小窓雑筆』によると、下野国塩原の妙雲寺には、永禄年間に残夢によって書かれた書状があったとされる[10]。また、那須の雲巌寺には残夢が「東山」と書いた扁額が残っていたという[注釈 10][10]

また、「或書曰」として次の話が載せられている。会津の山の奥深くに7.80歳ばかりに見える福仏坊という人物が住んでいた。彼が自分で語るところによると、彼は伊予国の出身で、罪を得たことで東国に下向したという。また、その最中に尾張国熱田神宮にて鐘を鋳たのを見物したと語った。ただし、熱田神宮の鐘が鋳られたのは何百年も前のことであった。そのため、人々は福仏坊を残夢の徒ではないかと噂しあったという[11]

『義経知緒記』

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義経知緒記』独自の記述としては、

  • 残夢自らが常陸坊海尊であると称していた。
  • 義経死亡後に、衣川の付近で老翁にとても美味しい「赤色の菓」を与えられ、それを食べたことによって無病長命となった。
  • 故事に詳しいある人が残夢に昔のことを尋ねたが、その返答は不明瞭なものであったため、世の人は偽者だと言い合った。
  • 最上地方に旧記を学んだ渡辺氏という者がおり、残夢が渡辺氏と会ったところ、残夢はまるで自らが体験したかのように源平合戦のことを語った。渡辺氏は「どのようにそれを知ったのか」と尋ねたところ残夢は「忘れた」と返答した。渡辺氏は続けて「あなたは常陸坊海尊その人が還俗したのはないのですか?そうでないとそこまで詳しく語れないでしょう」と笑いながら尋ねると、残夢は何も言わなかった。
  • (『知緒記』の作者曰く)残夢は本当の仙人(海尊)ではないながらも、言葉遣いや人相は只者とは見えず、物覚えがよく口が達者な人物であった。昔のことを詳しく語るのに、なぜそれを知っているのかは忘れたと言うのは矛盾している、と渡辺氏が言っていた。

といったものがある[注釈 11]

『義経勲功記』

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義経勲功記』附録「夢伯問答」には、海尊がいかにして残夢となったかについて詳細な記述がある。それによると、高館の戦いで海尊1人は追手から逃れて富士山に登り、飢えてどうしようもなく、浅間大菩薩に帰依して祈っていたら、岩の洞から飴のようなものが湧き出してきたので、舐めてみたところ、甘露のような味がし、飢えが無くなり、健康となり、仙人となった。それによって、時たま麓に降りて里人の作業の手伝いをし、江戸時代に至ったという。しばらくしたのち、ある人が法師に「あなたのような高僧はさぞかし高名な方なのでしょう。名前をおしえていただけませんか?」と尋ねたところ、法師は眉を顰めて「名乗るほどの者ではない。ただ、強いて名乗るなら残夢である。私こそ常陸坊海尊である。仙人となった後、名を晴庵主と改めたが、また名前を改めて今は残夢仙人と号している」と言ったという[注釈 12]

『孝経棲漫筆』

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孝経棲漫筆』には、残月という名前で残夢の伝承が伝わっている。それによると、加賀国小瀬復庵が聞いた話として、30年ほど前(『孝経棲漫筆』が編纂されたのは嘉永3年(1850年))に、加賀国に残月という60歳ほどの老僧が来て、金沢城下に流れる犀川浅野川が東西に流れるのを見て、「昔はこの川は南北へ流れており、このようには流れていなかった」と述べたり、春日山を見て「この山で源義経富樫泰家と酒宴をした。安宅の関から後を追いかけて自身の館に招いて酒宴したのである。義経が山伏の格好をして12人ほどで通ったのは嘘である。140、150人ほどで通ったのである」と述べたりした。ある人が残月の棲家を尋ねると、越後国の田中という駅の近くに、小松原宗雪という60歳ほどの人と共に暮らしている。穀物は食べずら松脂を炙って食べている」と返答した。誰ともなしに言い伝えたことには、残月は常陸坊海尊、小松原宗雪は亀井重清であったという[注釈 13]

『遊方名所略』

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遊方名所略』には、「信濃国埴科郡戸隠山に仙人あり、名を秋風道人と云ふ、俗に云ふ常陸坊海尊なり。建久の頃、村里の樵夫時々これを見たり」とある[4]

なお、『本朝故事因縁集』には常陸坊海尊が「信濃国の深山の岩窟に住んでいた」という記述がある[注釈 14]

『名家略伝』

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山崎美成千賀春城が編纂し、天保13年(1842年)に出版された『名家略伝[3]』には、次の話が記録されている。あるとき、宇都宮にある興福寺(興禅寺?)の物外播公(物外招播?)[注釈 15]が残夢に謁し問答をしたという。また、常陸国の田舎の村には毎月六斎日の市があり、その市にて残夢を見かけた人によると、60〜70歳ほどの老人に見えたという。

『秀雅百人一首』 

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緑亭川柳が編纂し弘化5年(1848年)に出版された『秀雅百人一首[13]』によると、残夢は「山風の かなこたなたに さそふれば 猶ちりの身ぞ ありかさだめぬ」、福仙無々は「来る雁と帰る燕ととなへども世に言づてん玉章もなし」と詠んだとされる。

人物像

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佐野正樹は、残夢伝説について以下のようにまとめている[9]

  • 元暦・文治の昔を目の当りに見たように義経主従を語った
  • その義経主従の語りはそれまでの伝えとは違ったものであった
  • 義経主従について語る残夢は広く歩き廻っていた
  • 残夢を常陸坊海尊だと見なし、「枸杞」「仙術」「赤色のくだもの」などによって長生を得た

また、残夢について多数の書物に記されているように、残夢伝説が江戸に広く知られていた理由について、『会津風土記』を編纂した会津藩主・保科正之が幕政にて重きを成したこと、『会津風土記』の序文を記した林春斎が『本朝神社考』の著者・林羅山の子であることなどが挙げられている[9]

出典

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  1. ^ 相原康二「文学に表れた平泉文化の基礎的研究(その6)―常陸坊海尊・清悦・残夢の物語―」『岩手大学平泉文化研究センター年報 7』p150-174(岩手大学平泉文化研究センター 、2019年3月29日)
  2. ^ [1]
  3. ^ a b [2]
  4. ^ a b 宮地巌夫『本朝神仙記伝 復刻版』(八幡書店、1988年)
  5. ^ 日白残夢」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E7%99%BD%E6%AE%8B%E5%A4%A2コトバンクより2023年8月15日閲覧 
  6. ^ 赤澤英二『雪村研究』(中央公論美術出版、2003年)
  7. ^ 小川知二「雪村の画論『説門弟資云』について」(『東京学芸大学紀要第二部門 人文科学』55号、2004年)
  8. ^ a b c 菊池研介編『会津資料叢書 第8 会津旧事雑考. 第1-3[3]』(会津資料保存会、1918年
  9. ^ a b c 昔話伝説研究会編『昔話伝説研究 (13)[4]』(昔話伝説研究会、1987年)
  10. ^ a b 水原一「小松寺の記 平家物語周辺伝説をさぐる[5]
  11. ^ 萩原宗固小窓雑筆[6]
  12. ^ 江本裕「『狗張子』注釈(一)」『大妻女子大学紀要. 文系』第31巻、大妻女子大学、1999年3月、107-122頁、CRID 1050564288353979520ISSN 09167692 
  13. ^ [7]

注釈

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  1. ^ 『会津風土記 』實相寺郭外ニ在元徳年中大光禪師建ツ焉禪師 諱ハ宗巴字ハ復庵元應元年三十七歳ニシテ元ニ入リ天目山ニ登リ法ヲ中峯ニ嗣テ而永正十二年ニ歸ル下野古河左馬頭政氏關東ノ十刹ニ列ス世之所謂殘夢者即當寺第二十二世桃林契悟禪師是也處々ニ住持シ那須ノ雲岩寺ニモ亦三タヒ住ス焉 天文年中來テ于此ニ住ス矣。」
  2. ^ 『本朝高僧伝』巻四四「常州福泉寺沙門残夢伝」釈残夢或号窟□山。不詳其嗣承。永禄中遊化関東、住常州福泉寺。東叡山慈眼大師小時逢夢、聴禅要。後謂人曰、吾参残夢和尚而得長生之術矣。(中略)天正四年三月二十九日、至夜二更、無病俄化。小頃蘇生、呼筆書偈。(中略)喝一唱擲筆長往。寿秩一百三十有九。」
  3. ^ 本朝神社考』近頃、人ありて云ふ。奥州に残夢といふ者あり。自ら字して呼白と曰ひ、又自ら秋風道人と称す。僧ならず俗ならず。瘋癲狂の漢なり。自ら曰く、須く一休(一休宗純)と友とし善し。其禅要を得たりと。又時々人と語るに元暦文治の事を以てす。而して曰ふ。其時義経何事をなし、弁慶其の事をなし、誰某は此の事をなし、平氏と某と戰ふと。其の話殆ど親見の者の如し。人怪しみて之を詰る時は則ち曰く、我れ之を忘れたりと。浮屠の天海及び松雪といふ者残夢に遇ふ、残夢杓杞飯を好んで之を食ふ。海亦之を喫す、人と語つて曰く、残夢の長生、事を速かにせずして杓杞を服する故なりと。人怪しみて曰く、彼蓋し常陸房ならんやと。海聞いて喜ぶ。人杓杞を送る。海受けて菜飯となして餔ふ。海が言に曰く、意に任せ、時に隨つて急なること勿れ、速かなること勿れ、緩々慢々是れ寿命を延ぶと。人或は之を信ず。嗚呼、浮屠妖惑の弊、至らずといふ所なし。昔漢文の長生を好みしとき、文成五利が儕ら帝に説いて曰く、黄帝死せずと。帝之を羨んで封禅す。然れども其所效しるし又勧つべし。今曰く、残夢死せずと。然れども其れ何いずれにか在るや、彼も一詐なり。此も一詐なり。是に由つて之を勧るに人君の嗜好愼まずんばあるべからず。」
  4. ^ 会津旧事雑考』によると、無無は磐城郡の人であるとされる。また、『小窓雑筆』ではこの話は天文年間のことであるとされる。緑亭川柳が編纂し弘化5年(1848年)に出版された『秀雅百人一首』によると、「福仙無々」として福仙と同一人物とされる。
  5. ^ 現在の会津若松市一箕町大字八幡牛ケ墓
  6. ^ 会津旧事雑考』によれば舜岳という人物が葬られた場所であったとされる[8]
  7. ^ 『会津風土記』 實相寺郭外ニ在元徳年中大光禪師建ツ焉禪師 諱ハ宗巴字ハ復庵元應元年三十七歳ニシテ元ニ入リ天目山ニ登リ法ヲ中峯ニ嗣テ而永正十二年ニ歸ル 下野古河左馬頭政氏關東ノ十刹ニ列ス 世之所謂殘夢者即當寺第二十二世桃林契悟禪師是也處々ニ住持シ那須ノ雲岩寺ニモ亦三タヒ住ス焉 天文年中來テ于此ニ住ス矣初テ來テ此ニ無無ト曰フ者有ヤト問フ而テ佐瀬氏與共ニ之ヲ訪フ 無無乃相ヒ見ユ殘夢歌ヲ詠シテ曰 奈之奈之登伊布毛伊都半里幾底美禮波安禮古曾阿連毛登乃須賀多天 無無返歌シテ曰 奈之奈之登伊布毛古登半利和賀須賀多安流古曾奈幾乃波之米奈利計禮 殘夢徐ニシテ曰曾我夜撃之翌一別以来也ト無無點頭ス殘夢ハ風巓漢自字シテ呼白ト曰ヒ又自ラ秋草道士ト稱ス檀越家之ヲ請スレハ則一日ニ數齎ス矣又連日食セサルモ飢タル色無ク年ヲ歴ルモ衣ヲ易ス或ハ衣ヲ與ル者有レハ則舊衣ノ虱ヲ掇テ于新衣ニ放テ而後之ヲ著ス自言フ一休與友トシ善ク其ノ禪要ヲ得タリ又時時人輿語ルニ元暦文治之事ヲ以ス而日某ノ時義經某ノ事ヲ為ス 辨慶其ノ事ヲ為シ誰ト某レ某ノ事ヲ作ル平氏與于某ニ戰フト厥話殆ント親ク之ヲ見ル者ノ如シ 人之ヲ詰レハ則予レ忘タリト曰フ矣 又人其ノ年ヲ問ヘハ則百五六十ト曰フ之ヲ怪メハ則我忘タリト曰フ矣往往前知之事有 或時庫中錢有盗将ニ壁ヲ鑿テ之ヲ取ントス残夢侍者ヲ呼テ曰ク錢ヲ於賊ニ與ヘキ侍者行テ見レハ則果テ然リ乃言テ曰錢ヲ與ニ壁ヲ鑿コト勿レ盗愧チ去ル侍者之ヲ告ク殘夢叱シテ曰ク何テ錢ヲ與へザル慈眼大師及ヒ松雪ト云者殘夢ニ遇フ殘夢拘抱飯ヲ好テ之ヲ食ス大師亦之ヲ喫ス人輿語テ曰殘夢長生スルハ事ヲ急ニセズシテ而拘抱ヲ服スルガ故也ト。嘗テ会津ニ鏡ヲ磨スル者有福仙ト曰人家之ヲ倩ヘハ則賃ヲ拘ハラズ笑語シテ日ヲ終フ磨甚タ好カラズ人磨擦スル年ヲ問ヘハ舊シ何ソ拙キコト此ノ如ナル耶ト則曰ク余レ磨スルニ心無ト也殘夢福仙ヲ見テ曰彼レハ義經ノ之旗持者ナリト福仙人ニ語テ曰ク殘夢ハ是レ常陸坊也ト牛カ墓村ノ舜岳カ塚自燒コト數月人甚タ之ヲ怪ム 殘夢行テ香ヲ燒キ偈ヲ唱レハ則其火即チ滅ス矣 又一日引導ス暴雨迅雷鬼火車ニ乗テ來リ棺ヲ奪テ去ント欲ス殘夢高聲ニ曰之ヲ許ルセ鬼カ曰否曰否ナラハ則往ケ矣鬼忽チ去テ而天晴ル矣天正四年三月二十九日牌上ニ親ラ日月幷ニ名ヲ記シ伽陀ニ書シテ曰ク無間ニ堕在シ五逆雷ヲ聞ク喝下ノ瞎驢死眼豁開ト筆ヲ擲テ棺ニ入テ而寂ス文禄年中壙ヲ啓テ之ヲ見レハ則只空棺而已矣其ノ後商客殘夢ヲ于越後州ニ見ル者有 又保科靫負殘夢ニ于三穂ノ松原ニ遇ヒ源平之事ヲ問フ殘夢カ曰今我與共ニ見ル者有ラス吾カ言ヲ徵トスルコト無シ焉義經ハ醜男也辨慶ハ美僧也然ルニ世之稱スル所 醜美相ヒ違フ此ノ類猶多シ故ニ語ルヲ得ス也」
  8. ^ 千草日記』の3月14日条「天正の比ほひ、残夢といひける人、此松原に庵を結びて有しに、行き訪ぶらひける人有。残夢、昔の事語り出て、元暦年中、平家滅びし事、まのあたりにみる人のごとく語り続け侍るに、聞く人、咎め出て、そのゆへを尋ねしに、長生なる人にして有しとなり。此人は仙家の術を得しにや有けん。下野国那須郡雲巌寺にも三度まで住侶し給ひ、陸奥国会津郡実相寺にも住て有けるに、その里に福仙と云人有、或とき福仙、残夢をみて、「常陸坊海尊なり」といひ、残夢もまた福仙に会ひて、「義経の旗を持ちし人なり」と人々に語りけるとなん。この他、此人の事は語り伝へて、いとあやしうめづらかなることでも有。」
  9. ^ 『本朝高僧伝』巻四四「常州福泉寺沙門残夢伝」釈残夢或号窟□山。不詳其嗣承。永禄中遊化関東、住常州福泉寺。東叡山慈眼大師小時逢夢、聴禅要。後謂人曰、吾参残夢和尚而得長生之術矣。(中略)天正四年三月二十九日、至夜二更、無病俄化。小頃蘇生、呼筆書偈。(中略)喝一唱擲筆長往。寿秩一百三十有九。」
  10. ^ 塩原妙雲寺と申す寺に永禄中の人の書にて、見事なるもの御座候、常陸坊海尊名を残夢と云ふと申し伝へ候。海尊は仙人に成りて残夢と申し、かの辺りに居る候由、那須の霊厳寺(雲巌寺)と申す大禅刹にも残夢の書「東山」の二字の扁額御座候。」
  11. ^ 『知緒記』「往昔、奥州に残夢と云者有。出生行年知ず。元暦・文治の事を能語る。義経又は家人の人相迄語る。義経は今世に云様には非ず、無男也。弁慶も人の云如なる姿にてはなく、美僧と云へり。常に常陸坊海尊なる由自称す。主君の滅後の所なれば、懐布、其跡を慕いて衣川の辺に至所に、老翁来て我に赤色の菓を与、其味甚美也。其後無病長命と云えり。古事を知りたる者有て、昔の事を尋ねる、其答不分明、世人偽詐と云えり。 其頃奥州最上に渡辺氏の者有。旧記を能覚え知る。残夢が事を聞て尋逢て物語を聞に、世に云伝る程の事を残夢語に、言語爽に而其諺今眼前に見が如し。然共其詞不分明、又此方より尋るに、不知事多く而年久敷事なれば忘ると云り。渡辺笑て曰、某は義経の御内に有し常陸房海尊と云法師の還俗したる者也。義経の御事又御内の者の人相言訛歳の程迄尋玉へ。具に語り聞せ申さんと云に、残夢詞無りしとぞ。残夢作り者乍、詞遣人相何れ唯者とは不見。按に物覚能口功者なると見えたり。昔の事を具に知りたる者と見ては、年久敷事なれば忘しと云て、前に語りし事共を云わざりしと、渡辺語りしとぞ。」
  12. ^ 義経勲功記』附録「夢伯問答」昔常陸坊海尊とかや、源の九郎義経奥州衣川高館の役に、一族従類皆亡びけるに、海尊一人は軍勢の中をのがれて、富士山に登りて身を隠し、食に飢えてせん方のなかりしに、浅間大菩薩に帰依して守を祈りしに、岩の洞より飴の如くなる物涌き出でたるを、嘗めて試むるに、味ひ甘露の如し。是を採りて食するに飢えをいやし、おのづから身もすくやかに快くなり、朝には日の精を吸いて霞に籠もり、終に仙人となり、折節は麓に下り、里人に逢いてはその力を助け、人の助かる事、今に及びて、世に隠れてありという。(中略)法師語りけるよう、我はもと東国の者なり。久しく奥州衣川のあたりにありて、心の外なる災のありしを、纔にのがれて此処に隠れ、身を行い魂を練りて、年の過ぎる事を覚えず、独り楽しみを得て、折節は昔を思い出で、奥州にも行き通う事あり。(中略)さるにても御名ゆかしくこそ。名告りて聞かせ給えと言う。法師は眉をひそめて、名告るにつけてはあやしかるべし。まことは我が名は残夢という。吾こそ常陸坊海尊なれ。仙人と成て後、名を晴庵主と改めしが、その後又改めて、当時は残夢仙人と号するぞかし。
  13. ^ 加州の坂井順元云、三十年許以前に加州へ残月という六十ばかりの老僧来りて、加州城下の犀川と、あさの川の東西に流れるを見て、昔は此水南北へ流れし。かく流れざりしと云事より起りて、城下の春日山というを見て、此山にて義経を富樫が酒宴せし事こそ有つれ。安宅の関より跡を追い、おのが館の山にて酒宴したりき。昔物がたりに判官殿十二人の作り山伏にて通られしなと云事跡かたもなき事なり。其時ここを通られしもの、百四五十人計にて有つる也といえり。此残月が住居を能々尋ねれば、越後の田中と云駅の辺に一室を作りて、小松原宗雪と云六十計の者と同宿してあり。殻を絶て喰わず、松脂を煉りて服餌す。二人ともにいかなる者とも知らず。誰ともなしに言出していい伝えし所は、残月は常陸坊海尊、小松原は亀井六郎なりという。昔の事問えど答えずとなん。」
  14. ^ 本朝故事因縁集』「文治五年伊予守判官義経奥州高館城にして滅亡の時、常陸坊遁去り富士山に入る。食事無し。石上に飴の如きもの多し。これを取て食す。是より食はずとも飢ること無し。死せずして三百年、木の葉を衣と為して住めり。寒暑無く、近代信濃国の深山に岩窟有り。これに遊んで年未だ老いずと云々。」[12]
  15. ^ 天正7年(1579年に師・湛堂祥激禅師の跡を継ぎ、元和7年(1621年)に死亡。