武田政綱
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時代 | 鎌倉時代中期 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 信綱、通称:五郎三郎 |
幕府 | 鎌倉幕府 |
主君 | 北条時頼→時宗 |
氏族 | 武田氏 |
父母 | 父:武田信政 |
兄弟 |
信時、政綱、駒井信盛、下条政長、 安芸信泰、若狭信綱 |
子 | 信家(宗信) |
武田 政綱(たけだ まさつな)は、鎌倉時代中期の武将。北条氏得宗家被官である御内人。甲斐源氏武田氏一族で石和流武田氏の祖。『吾妻鏡』の1263年の記述では「政直」と呼称されているが、これは著者の誤記と言われる。
略歴
[編集]『吾妻鏡』では、政綱は仁治から弘長年間に活動しており、その事績は鶴岡八幡宮放生会[1]の供奉人や弓始、笠懸における射手としての活動に集中する。建長3年(1251年)正月、弓始の儀式で射手を務める。同年8月、犬追物、笠懸の射手を担当。弘長元年(1261年)、笠懸を披露する北条時宗のために的を拵える。同3年11月22日(1263年12月24日)、北条時頼の臨終の際、最後の看病を許された得宗被官7人の中に政綱の名が見える。
兄の信時は安芸国守護となり甲斐国から移住するが、政綱は甲斐に残留し、石和を本拠として石和流武田氏の祖となった。なお、黒田基樹は「石和三郎」は祖父である信光以来の名乗りであり、信時流が惣領を継承したものの、政綱流も北条氏と結びつくことで惣領家から自立して「甲斐武田氏」を形成したとする[2]。
鎌倉時代末期には、曾孫の政義が甲斐守護となっているが、南北朝期には兄の信時流武田氏の当主武田信武が甲斐へ再土着し、室町期に甲斐守護を継承し戦国大名化した武田宗家となり、信玄の代に至る。
脚注
[編集]- ^ 例年8月15日に開催された。
- ^ 黒田基樹「鎌倉期の武田氏」『地方史研究』211号、1988年。/所収:木下聡 編『シリーズ・中世西国武士の研究 第四巻 若狭武田氏』戎光祥出版、2016年。ISBN 978-4-86403-192-9。
参考文献
[編集]- 北条氏系譜人名辞典(新人物往来社)