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武岡鶴代

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武岡 鶴代
生誕 (1895-09-18) 1895年9月18日
出身地 日本の旗 日本 岡山県 東南条郡 林田村(現:津山市
死没 (1966-09-30) 1966年9月30日(71歳没)
日本の旗 日本
学歴 東京音楽学校
ジャンル クラシック音楽
職業 声楽家(ソプラノ)
音楽教育者

武岡 鶴代(たけおか つるよ、1895年(明治28年)9月18日 - 1966年(昭和41年)9月30日[1])は、日本の声楽家ソプラノ)、音楽教育者国立音楽大学の創立メンバーの一人。

経歴

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岡山県東南条郡林田(はいだ)村(現在の津山市川崎)[2]にて、米問屋の父・安次郎、母・澤のもと、六人姉妹の六女として生まれる。岡山県津山高等女学校卒業[3]後、1913年(大正2年)東京音楽学校予科入学。1914年(大正3年)東京音楽学校本科声楽科入学[3]ハンカ・ペツォルトマルガレーテ・ネトケ=レーヴェに師事[1]。1917年(大正6年)卒業、上真行奨励賞受賞。研究科に進み、1919年(大正8年)修了。同年5月御前演奏会に出演。同年10月、東京音楽学校「秋季演奏会」に出演、公式に楽会にデビュー。1920年(大正9年)南葵楽堂においてバッハグノーの『アヴェ・マリア』を演奏。日本で最初の四重唱団「澤崎クヮルテット」(ソプラノ:武岡鶴代、アルト柳兼子テノール澤崎定之バス矢田部勁吉)の創立に参加、演奏活動を開始[3]。ドラマチック・ソプラノとして活躍[1]。1921年東京音楽学校教務嘱託(講師)に就任。1924年(大正13年)日本交響楽団管弦楽演奏会(山田耕筰指揮)に出演、ワーグナーローエングリン』詠唱、R.シュトラウス薔薇の騎士』終幕の二重唱を演奏。同年には、西條八十の詩『海にて』の作曲も行い、セノオ楽譜(№344)より出版[3]

1926年(大正15年)私立の音楽学校を設立しようとの30歳代の気鋭の音楽家たちの仲間に紅一点として加わり、東京高等音楽学院の創立メンバー(武岡のほか、音楽マネージャー・中館耕蔵、声楽家・矢田部勁吉、ピアニスト・榊原直、宗教学者で初代学院長[4]・渡邊敢)となる。声楽指導と学院運営に参加[3]。門下生としては、西内静、友竹正則田口興輔等々、多数の逸材を輩出[3]。1928年(昭和3年)東京高等音楽学院主催「御大典奉祝演奏会」においてワーグナーの『タンホイザー』詠唱を奉唱。1929年(昭和4年)現職のまま文部省在外研究員に任ぜられドイツに留学し、テレーゼ・シュナーベルに師事。1930年(昭和5年)「帰朝第1回武岡鶴代独唱会」開催。1931年(昭和6年)「新交響楽団第89回公演」(近衛秀麿指揮)にてベートーヴェン第九』ソプラノ独唱。1935年(昭和10年)「鶴声会」を創立。1936年(昭和11年)日本放送協会JOAK)で『歌のうたい方』12回放送。武岡と柳兼子が半分ずつ担当。1937年(昭和12年)東京高等音楽学院主催「ベートーベンの夕」にて矢田部勁吉邦訳による『第九』初演。1938年(昭和13年)「東京コンサート」結成(メンバー:武岡、柳兼子、矢田部勁吉、鈴木鎮一、土川正浩)。1943年(昭和18年)太平洋戦争激化の中で、大阪モンペ姿で演奏。1944年(昭和19年)夏「東京帝国大学出陣学徒壮行大音楽会」にて『第九』ソロを演奏。1945年(昭和20年)3月の大空襲で大久保の家が焼失。平山(多摩)に疎開[3]

戦後、1947年(昭和22年)に校名「国立音楽学校」への変更が認可。1950年(昭和25年)大学令により「国立音楽大学」に昇格、理事に就任。1951年(昭和26年)学校法人国立音楽大学となり理事に就任。1954年(昭和29年)「武岡鶴代独唱会」開催、カムバックを果たす。1955年(昭和30年)渡欧、恩師テレーゼ・シュナーベルをイタリアに訪問、3週間のレッスンの後、ヨーロッパ各国を訪問。1963年(昭和38年)宇部市渡辺翁記念会館において「武岡鶴代・属澄江演奏会」開催(最後の演奏会)。1966年(昭和41年)9月勲四等に叙せられ瑞宝章を授与される。9月30日死去。71歳没。10月日比谷公会堂において大学葬(葬儀委員長:中館耕蔵)。墓所は多磨霊園(22-1-90)。遺族からの寄付金を基金とし「武岡賞」制定、大学の卒業に際し、声楽と器楽の最優秀の女子に与え、名声を今に伝えている[3]

著書

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  • 新修コールユーブンゲン ヴュルネル原著 武岡鶴代、矢田部勁吉 共編 シンキヤウ社 1934年(昭和9年)[5]

録音

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※確認できたもののみを記した。

  • 日本SP名盤復刻選集 4(日本語版)ローム・ミュージック・ファンデーション 武岡鶴代ほか[6]
    • 収録曲・独唱:(『椿姫』より)「ああそはかの人か」「花から花へ」ヴェルディ(作曲)、武岡鶴代(ソプラノ)、榊原直(ピアノ伴奏)(ニッポノホン、商品番号 : 15520)1925年(大正14年)1月新譜
  • 独唱:「かもめ」弘田龍太郎(作曲)、武岡鶴代(ソプラノ)、榊原直(ピアノ伴奏)(ニッポノホン、商品番号 : 15619)[7] 1925年4月新譜
  • 独唱:「マリアの子守唄」レーガー(作曲)、武岡鶴代(ソプラノ)、榊原直(ピアノ伴奏)(ニッポノホン、商品番号 : 15619)[7]
  • 独唱:「浜千鳥」「浜辺の歌」(テイチク、商品番号 : X5016)1942年(昭和17年)3月新譜

脚注・出典

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  1. ^ a b c 武岡鶴代 20世紀日本人名事典の解説”. コトバンク. 2020年2月9日閲覧。
  2. ^ 『岡山の今昔』岡山人(20世紀、武岡鶴代)”. 2020年2月9日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h 武岡鶴代~本学の創立と歩みを支えて~”. 国立音楽大学. 2020年2月9日閲覧。
  4. ^ 沿革”. 国立音楽大学. 2020年2月9日閲覧。
  5. ^ 新修コールユーブンゲン”. 国立国会図書館. 2020年2月9日閲覧。
  6. ^ 日本SP名盤復刻選集 IV (日本語版); ローム・ミュージック・ファンデーション”. TOWER RECORDS. 2020年2月9日閲覧。
  7. ^ a b 武岡鶴代”. 国立国会図書館 歴史的音源. 2020年2月9日閲覧。