檜原敏郎
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ひわら としろう 檜原 敏郎 | |
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近畿日本鉄道専務当時 | |
生誕 |
1905年2月14日 日本・兵庫県美嚢郡奥吉川村 |
死没 | 1984年1月10日(78歳没) |
死因 | 心不全 |
住居 | 大阪府八尾市 |
出身校 | 京都帝国大学経済学部 |
職業 | 経営者 |
団体 |
近畿日本鉄道 近鉄百貨店 |
肩書き |
近畿日本鉄道元副社長 近鉄百貨店元社長 三交不動産元取締役 伊勢志摩国立公園開発元監査役 関西経営者協会元副会長 |
親戚 | 義父・平野復男(大日本紡績元取締役) |
家族 |
長男・檜原恒一郎(月桂冠元副社長) 孫・檜原麻希(ニッポン放送社長) |
檜原 敏郎(ひわら としろう、1905年(明治38年)2月14日 - 1984年(昭和59年)1月10日)は、日本の経営者。近畿日本鉄道元副社長[1][2]。近鉄百貨店元社長[2]。三交不動産元取締役[1]。伊勢志摩国立公園開発元監査役[1]。関西経営者協会元副会長[1]。
経歴・人物
[編集]兵庫県美嚢郡奥吉川村(現:三木市吉川町)出身[3]。大阪府八尾市在籍[3]。
1930年(昭和5年)京都帝国大学経済学部を卒業し、1932年(昭和7年)大阪電気軌道(現:近畿日本鉄道)に入社[1][4]。1951年(昭和26年)取締役、同年12月常務に就任[1]。1959年(昭和34年)6月専務を経て、1968年(昭和43年)5月副社長に就任した[2][1]。
百貨店事業の担当になっていたため、1972年(昭和47年)4月に近畿日本鉄道から近鉄百貨店が分離・独立した際、社長に就任した[2][4]。1978年(昭和53年)5月に会長に就任[2][4]。
1965年(昭和40年)6月運輸大臣表彰、同年7月労働大臣功労賞を受賞[1]。
1968年(昭和43年)11月藍綬褒章を受章し、1977年(昭和52年)11月勲三等旭日中綬章を受章[2][4]。
1984年(昭和59年)1月10日心不全のために死去[5]。78歳没[5]。
家族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『人事興信録 第25版 下』人事興信所、1969年、22(ひ之部)頁 。
- ^ a b c d e f 『人事興信録 第31版 下』人事興信所、1981年、24(ひ之部)頁。
- ^ a b 人事興信所 (1953年). “人事興信録 第17版 下”. dl.ndl.go.jp. p. 8(ひ之部). 2025年1月26日閲覧。
- ^ a b c d 人事興信所 1981, ひ24頁.
- ^ a b 1984年 1月11日 日本経済新聞 朝刊 p27
- ^ “月桂冠、6月27日付役員人事”. 日本食糧新聞・電子版. 2025年1月25日閲覧。
- ^ a b INC, SANKEI DIGITAL (2021年12月4日). “ニッポン放送・檜原社長の父死去 心不全、88歳”. サンスポ. 2025年1月25日閲覧。
参考文献
[編集]- 人事興信所 編『人事興信録 第17版 下』人事興信所、1953年。
- 人事興信所 編『人事興信録 第25版 下』人事興信所、1969年。
- 人事興信所 編『人事興信録 第31版 下』人事興信所、1981年。
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