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権皋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

権皋(けん こう、723年 - 768年)は、唐代官僚は士繇。本貫秦州略陽県[1]

経歴

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後秦の尚書の権翼の後裔にあたる。羽林軍参軍の権倕の子として生まれた。若くして進士に及第し、臨清県尉に任じられた。安禄山幽州長史から河北按察使となると、権皋はその下で薊県尉となり、従事をつとめた。権皋は安禄山が反乱を起こす計画であるのをひそかに察知し、安禄山のもとを去ることを望んだが、老母に禍が及ぶのを心配していた。天宝14載(755年)、権皋は安禄山の命を受けて北方民族の捕虜を朝廷に献上し、長安から帰る途中に、福昌に立ち寄った。福昌県尉の仲謨は権皋の従妹の婿であり、ひそかにかれと密計を結んだ。権皋が河陽に到着すると、偽って病が重くなったといって仲謨を呼び出した。仲謨は河陽に着くと、権皋がにわかに亡くなったふりをして哀哭し、権皋の棺を葬ったようにみせた。従吏が范陽に帰ると、権皋の死を報告し、権皋の母は嘆き悲しんだ。安禄山は権皋の死が偽りであるとは疑わず、その母が帰るのを許した。ときに権皋はひそかに隠れており、母を淇門で迎えた。母を奉じて南へと向かった。母子が長江を渡ったとき、安禄山はすでに反乱を起こしていた。このことから権皋は名を知られるようになった。淮南采訪使の高適の上表により、大理評事に試用され、判官をつとめた[2][1]

至徳2載(757年)、永王李璘が反乱を起こすと、権皋は巻き込まれるのを恐れて、名を変え服を改めて逃れた。に蒙塵していた玄宗に称賛され、監察御史に任じられた。母が死去したため、権皋は辞職して洪州で喪に服した。ときに動乱のため南北は隔絶しており、年を越えても詔命が洪州に届くことはなかった。宦官の使者が洪州に居座って帰らず、苛斂誅求して州県はこれに苦慮していた。王遘が南昌県令となると、この宦官を捕らえて取り調べようと、権皋にそのことを相談した。権皋は長らく物言わず、「勅使を待つべきところ、このような発言をされるとは」と泣いていった。王遘はへりくだって礼をいった。権皋は浙西節度使の顔真卿の上表により行軍司馬となり、詔により起居舎人として召されたが、いずれも病と称して辞した。権皋を李季卿が江淮黜陟使となり、権皋の節操のある行動を上奏すると、権皋は著作郎に転じたが、やはり就任しなかった[3][4]

安史の乱により長安・洛陽は反乱軍に蹂躙されたことから、江東に逃れていた知名の士は、李華・柳識韓洄・王定のように、権皋の徳を慕って友情を結んだ。大暦3年(768年)、権皋は家で死去した。享年は46。秘書少監の位を追贈された。は貞孝といった[5][6]

子に権徳輿があった[2][6]

脚注

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  1. ^ a b 新唐書 1975, p. 5566.
  2. ^ a b 旧唐書 1975, p. 4001.
  3. ^ 旧唐書 1975, pp. 4001–4002.
  4. ^ 新唐書 1975, pp. 5566–5567.
  5. ^ 旧唐書 1975, p. 4002.
  6. ^ a b 新唐書 1975, p. 5567.

伝記資料

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参考文献

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  • 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2 
  • 『新唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00320-6